蕪村
蕪村
ぶそん
(一七一六-八三)
享保元年摂津国(大阪府)東成郡毛馬村で生れた俳人で、画家としても知られている。
詳しい家柄については伝わっていないが、谷口氏で別姓を与謝と称したといわれている。
宰鳥・夜半翁・落日庵などと号し、画家としては子漢・四明・三果居士・長滄等その他の号を多く用いていた。
早くに両親を失い享保の末、二〇歳前後の頃に故郷を去って江戸へ上り、俳画を学んだといわれている。
寛保二年(一七四二)二七歳の時、常陸結城に住む親友砂岡雁宕のもとへ一時身を寄せたこともあったが、各地を巡回し奥羽にまで赴いたといわれている。
この間大いに実力をつけ、当時の俳壇における中心的存在となった。
蕪村の句は、中世における芭蕉の「さび」の精神とは対照的な「きらび」を主とするもので浪漫的な俳風であった。
彼はまた天明二年(一七八二)に「御影講の蓮やこがねの作り花」という句を作っている。
お会式に黄金の蓮を造って供えたというあたり、芭蕉の御命講の句と比較してみて、いかにも蕪村らしい「きらびやかさ」を感じる。
更に明和七年(一七七八)の作で、「いなづまや二打三打釼沢」という句がある。
これは日蓮聖人竜口法難を詠った句で、鎌倉で「稲妻」という題で作ったものである。
「二打三打」は別の書には「二折三折」となっているのもあり、普門品の「刀尋段段壊」に通じるものである。
なお「釼沢」については、相模国足柄郡にその地名があるが、これでは鎌倉から離れてしまって、竜口法難とも無関係となってしまうので、恐らくは竜口を指した縁語ではないかと考えられる。
天明三年一二月二五日没、六八歳。
彼の俳風は高井几董によって受継がれた。
几董は法華経を詠んだ句を残している。
また蕪村との交わりのあった大江丸の句にも日蓮聖人や法華経の心を詠った句が数多く残されている。
こうした点からみて、蕪村やその友人・門下の間では日蓮聖人に関心を持ち、御命講とか竜口など話題にしながら句作していったことがわかる。
当時の法華信仰が庶民の間で盛んであったことを証する一資料とみることができよう。
また彼は俳画家としても著名な存在であった。
《上田本昌「俳諧文学と法華信仰」『棲神』三九号、『国史大辞典』一四巻「与謝野蕪村」の項》