貞徳
貞徳
ていとく
(一五七一-一六五三)
元亀二年京都に生れた俳人・歌人・歌学者。
貞門俳諧の始祖。
姓は松永、幼名を小熊、勝熊ともいった。
また号を長頭丸・明心・延王丸・保童坊などとも称した。
先祖は駿河国(静岡県)入江郡一帯に勢力を張っていた入江氏であり、室町時代の初期頃に摂津高槻の城主となった。
しかし祖父の入江五郎政重の代に没落して、父の永種は五歳で孤児となり、曽祖母の妙精に育てられ、七歳で京都五山の一である東福寺に入り禅の教養を身につけた。妙精は当時勢力のあった松永弾正久秀の伯祖母で、篤い法華経の信仰者であった。永種はこのため松永姓を名のり、妙精の感化によって日蓮宗に帰依し、法華経一部を読み覚え二〇歳頃還俗するまでは本国寺に住んだ。また永種の母は藤原定家の子孫に当ることから、歌人・儒学の面でも知人が多く交誼も深いものであった。
こうした血筋に育った貞徳は、自然に文化人との接触が多く、二〇歳頃には早くも秀吉の祐筆となった。
貞徳の長兄の熊寿は妙覚寺日典のもとで出家し、日陽として僧侶の道に進んだ。そのため、次男の貞徳が家督を継ぐことになり、和歌の道を学んだ。
やがて連歌に熱中するようになり、後年俳諧の面でも指導者として立つ基礎が養われていった。
三〇歳の慶長五年(一六〇〇)に関ケ原の合戦があり、秀吉から家康へと政治の主権が変ったが、貞徳は京都を離れず歌学者として庶民に歌を指導した。
門下からは北村季吟、加藤盤斉、木瀬三之らを始め幾多の著名な歌人が生れるに至った。なかでも深草の元政は貞徳の門から出て、当時の歌人として広く宗門の内外に知られた。
日蓮宗にとっても数少ない歌人僧元政の歌道における師という意味で、貞徳の存在は大きいものがあるといえる。
一方、俳人としての貞徳は、慶長の末頃から俳諧のグループにおける代表的な存在となり、元和元年(一六一五)には妙蓮寺の日源和尚らと句作を行っている。
やがて寛永の末期には全国における俳壇の中心的人物となり、貞徳の一門は次第に増えて、大集団にまで発展して行った。
門人の中には山本西武(さいむ)、安原貞室、鶏冠井(かいで)令徳らの有力な人々があり、僧日能もその一人に数えられている。日能は越前(福井県)敦賀本勝寺の住職で、寛永六年一一月に京都の妙満寺で句会が開かれた際、貞徳らと一緒に句作している。貞徳の一家が深い日蓮宗(勝劣派)の信者であったので、自然と日能との親交が生まれて行ったものと考えられる。
日能は貞徳について句を学び、『鷹筑波集』には巻頭をしめている。
貞徳には数多くの門人があったが、特に山本西武、北村季吟ら七人を「貞門の七俳仙」と称したが、日能はこの「七俳仙といえども上にたたんこと難し」と称される程の人であった。
現在、天理図書館には貞徳自筆による日能との「両吟百韻」一巻が所蔵されている。
また貞徳は晩年の慶安三年(一六五〇)に大仏殿の南に果樹園を造り、柿・桃などを植え、芦の丸屋・吟花廊・報恩蔵を建てた。
このため柿園翁とも呼ばれたが、ここで法華経一千巻の納経を行っている。
納経の奥書には、「これは人丸・赤人をはじめ奉り、よろずの哥仙は不及申、過去現在未来のうたよみ、連哥俳諧にいたるまで、此度しきしまの道に心をよする一切の貴賤上下道俗、其外まろが御恩をかうぶりし尊師たちの御ぼだひ、皆具成仏の御ためなり」と記されている。法華経千巻を納経したということは並々ならぬことであり、貞徳の法華信仰の深さを知る一つの資料といえよう。
また、「はかなき絵草子を見ても、其撰者に、かならず一遍の回向あるべき物なり。南無妙法蓮華経」といった宗教的情操をもって作品に対した。
業績としては『和歌宝樹』などの歌語辞典を編集したり、万葉集の研究から狂歌に至るまで広く手をそめ、『畸人談』を著し、俳人としても当代に秀れた業績を残している。
三十余年間にわたり門下を指導・養成し、貞門の一流派を全国に広め、俳諧を文芸の上で大きく位置づけた功績は、俳諧史上並ぶ者がいないとまで言われている。
しかも、日蓮宗にとっては元政・日能に大きな影響を与えた点からみただけでも注目にあたいするが、更にその上、貞徳一家が深い法華経の信者として、世を送ったことにも特筆すべきものがあるといえる。
承応二年一一月一五日京都で没した。
八三歳。
「露の命きゆる衣の玉くしげ ふたたびうけぬ御法(みのり)ならなむ」の辞世を残している。
墓所は京都上鳥羽の実相寺である。
《上田本昌「俳諧文学と法華信仰」『棲神』三九号、『国史大辞典』一三巻「松永貞徳」の項》