妙正物語【文学】
妙正物語【文学】
みょうしょうものがたり
仮名草子。
京都妙覚寺の住持実成院日典(一五二八-九二)作と伝えられるが確証はない。
堺の薬王寺の住持日領が摂津国小浜を通りかかり、そこに庵をかまえ曼陀羅本尊をかけて子息妙善の霊を供養する妙正に会って物語を聞く。
父子は備前国の者で専修念仏の門徒であったが、妙善が商用で上京した折、妙覚寺日典の折伏を受け、帰郷して父と宗論に及ぶ。
長い問答の末、父は遂に改宗を誓うが、そこへ母が現れてヒステリックに泣き叫ぶ。
子は論理の通じない母の説得をあきらめ、憂いに沈んだまま衰弱してゆく。
医師に死を宣告された子の前で父母は岡山蓮昌寺の日紹から受法して見せるが、子は骨を身延山へ納めてほしいと遺言して死ぬ。
父は木曽路から身延に至り、納骨をすませると鎌倉・池上などの霊跡を拝んでもどり、今ここに逗留しているというのである。
事の次第を語り終えた妙正は、日領と別れた後、妙善の「霊山にて待ちまいらせん。やがて参れ」という言葉に従い、近くの生瀬川に入水する。
以上の筋書の物語であるが、問答部は多くの経典を引いて緻密に論旨を組上げており、また法華経の教えは「有難き易行易修の御法なり。末世相応の宗躰なり」としながらもただ一つだけ守らなければならないことがあるとして「余経・余宗もみな仏説なりといひて、ならべてしんぜ候はば、成仏はあるべからず。日蓮宗のをきてには、是第一なり。他宗の心ざしをうけず、ほどこさずの法度にて候なり」と言うなど、不受不施義(近世に組識された同派の始祖日奥は日典の門下)をもって他宗・他派に対抗する当時の妙覚寺門流の姿がよく現れている。