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専修念仏

せんじゅねんぶつ #1859

専修念仏

せんじゅねんぶつ

浄土往生するために阿弥陀仏の本願力を信じ、念仏以外の行をまじえず、ただひたすらに念仏を修すること。
源空は『選択集』において、善導の『観経疏』の「一心に専ら弥陀の名号を念ず」の文に基づいて「南無阿弥陀仏」と称(とな)える念仏のみが正しく浄土に往生する正定の行であるとした。
更に善導の『往生礼讃』を引用して「私に云く、此の文を見るに、いよいよすべからく雑を捨てて専を修すべし。あに百即百生の専修正行を捨てて、堅く千中無一の雑修雑行を執せむや」といい、『浄土宗略抄』に「ただ極楽に往生せんとおもはば、一向に称名の正定業を修すべき也。(略)このゆへに正行を行ずるものをば、専修の行者といひ、雑行を行ずるをば、雑修の行者と申也」といって、雑修雑行を捨て自力をまじえず、ひたすら念仏することを勧めたのである。
このような主張に対して日蓮聖人は『立正安国論』において「近くは所依の浄土の三部経の唯除五逆誹謗正法の誓文に背き、遠くは一代五の肝心たる法華経第二の若人不信毀謗此経乃至其人命終入阿鼻獄の誡文に迷う者也」(定二一六頁)と批判されている。
聖人源空が自己の所依とする浄土三部経の阿弥陀如来の本願に五逆と謗法の二類の衆生が除かれていることを弁えずに、往生浄土専修念仏を主張することは所依の浄土の経旨に背くものであると指摘され、謗法の罪による堕地獄は必至であると断言されたのである。
更に聖人権実判の立場から法華経と浄土三部経を比較し、源空所依の浄土三部経は釈尊一代五時の説法の中でも第三方等部に属する方便権教に過ぎないと判じ、かかる方便教に依拠した専修念仏の教えは末法代と人には全く無益のものであると批判されている。
《『遺文辞典』教学篇「専修念仏」の項》

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