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紀行・日記

きこう・にっき #4419

紀行・日記

きこう・にっき

紀行は旅行中の体や、象・見聞を書き記したものを指す。
出発から帰着までの旅程や地誌・風土・風俗・人情等を記録したものから、文章に気を配った美文調や感慨・思想にまで及ぶものなど、多種多様である。
既に『万葉集』に萌芽が見られるが、独立した作品では紀貫之の『土佐日記』が最初だとされている。 旅行記、道中記、旅日記、道の記などともいわれている。
数多くの作品が発表され、文学の中でも一つの領域を形成している。
日記については、実や感想を日毎に記録したものであり、『土佐日記』以来、古くから幾多の人々によって記されてきている。
宮廷日記、旅日記、大寺院建立日記などを始めとして、政治的な公式のものから、個人の私生活に関する日記に至るまで、範囲は広い。
文学で日記という領域を占めているのは、主として私的な日記を指している。 ち『更級日記』『伊勢日記』『紫式部日記』等が代表的なものであり、『和泉式部日記』や『蜻蛉日記』など、物語の格が強いものもある。
『紀行文』と共に漢詩俳句和歌等を用いた日記も多い。
室町代以降は日記文学の主なものはほとんどが紀行文学と呼ばれるものが多い。
古来、紀行・日記の中にも法華信仰に関する記述が数多く見られる。
例えば阿尼の『十六夜日記』の中には、病魔に侵された折、「の御前にて心一つにして法華経を読み」その御法のしるしにて、名残りもなく全治したが記され「たのもしな身に添ふともとなりにけり 妙なる法の花のちぎりは」の歌が添えられている。
『更級日記』には、菅原標女が『源氏物語』に熱中して、他のに目もくれなかったが、ある夜夢に「清げなる僧の黄なる地の袈裟着たるが来て、法華経五巻を疾く習へ」と告げられたが書かれている。
また日蓮宗関係の著者としては、深草の元政が万治二年(一六五九)八月一三日に七九歳の母を伴って、身延山へ参詣の旅に出た『身延道の記』がある。
道中法華経を背負い頭陀袋を掛け、長途の旅に出ている。
文中には随所に漢詩和歌を折込み、二五日に身延山へ到着している。
翌日祖師堂の開帳をし御影を拝して「一たび延山に上りて心愈悲し 倶に末法に生れて師に逢はず 手頂礼影堂の下 涙尼壇を濕し起んと欲すること遅し」という名吟を遺している。
更に御真骨堂に詣り「なにゆゑにくだきし骨の名残ぞと 思へば袖に玉ぞ散りける」と詠っている。
二七日は奥之院へ登り、父の遺骨を収め、自身の剃髪を埋め、二八日は鎌倉・池上方面へ向うべく、身延を出発しているが、この間身延での文は特に有名である。
片瀬・比企谷・鎌倉・池上・玉沢等の霊跡を巡拝し、一〇月上旬までの長旅であった。
更に安永五年(一七七六)に、紀州侯第九代の徳川治貞に任えた老女篤子が『安永身延紀行』を遺している。
これも長い旅の紀行・日記であり、三月八日に万沢を出て身延にたどり着き、山本に宿をとり、九日は諸堂を巡拝している。
身延山久遠教寺法華院」と記し「五岳の峯高く、八漢の谷深く、麓に四河の流れ清し。 まことや天竺霊鷲山をかたどりしといへるも、むべにこそ覚ゆれ」と身延の風景をつづり、女らしい観察もしている。
「みのぶさむ」の五字を頭に付けた歌五首を交えたり、紀州第七代宗将の紺紙金泥の法華経や宝塔を拝しての感激も記されている。
また延宝四年(一六七六)の弥生に、京都を発って東海道の旅をしつつ「祖師の御真骨をおがみ奉らんと思いたち、心を友として」身延山へ登った『身延鑑』がある。 著者は「洛陽之沙門」と記されているだけなので、さだかではないが、一応一円院日脱といわれている。
逢島・総門から三門を経て、祖師影堂・本堂・大書院等の諸堂各を案内の老僧に伴われて巡拝したことがこまかに記されている。
和歌や漢詩を交えて三巻からなり、七面山へも登詣したことが記されている。
なお身延関係及びそれ以外にも紀行・日記に関する文章は数多く見ることができる。 その中には、中村経年『身延紀行』、円亭九孤『身延詣』、十返舎一九身延道中金草鞋』、仮名垣魯文身延詣』などがある。 また、徳富蘇峰の書いたものに『探秋色遊記』『身延参詣記』がある。
若山牧水は『身延七面山紀行』を綴り、登山家深田久弥も『七面山』を書いている。
(上田本昌)

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