日尊(蓮成院)
日尊(蓮成院)
にっそん
(一五五八-一六〇三)
池上・比企両山一三世、字は文甫、蓮乗院と号す。
京都の出身で、父は公卿の広橋国光といわれ、俗弟で先に出家していた京都本国寺一六世究竟院日禛(一五六一-一六一七)について剃髪したといわれる。
まず日禛のすすめで叡山に遊学、ここで下総の学徒要行院日統(-一五七九)、播磨出身の教蔵院日生(一五五三-九五)らの俊英と会い、道契を結んで勉学に精進した。
叡山遊学を終えた同学の日統は、天正元年(一五七三)に故地下総の飯塚に帰り、光福寺で学室(飯塚講肆)を構えた。
同じ頃やはり同学の日生も洛北松ケ崎の庵室で講筳を開いていたが、天正五年に日統の招請で飯塚に下り、天台三大部の講義を補佐することになった。
日尊も両者の学徳を慕って下関し、飯塚で更に勉学に努めた。
ここには法雲日道、中正日友、真応日達、淳誉日堯などの俊英がひしめき、関東における檀林教学の殿堂が形成された。
天正七年に日統が病気のため後事を日生に託して没すると、飯塚の郷民と檀林の学徒の間で紛争が生じ、やむなく隣接の内山村に講室を移したが、ここも安住の地ではなく、三転してやはり近接する飯高の地に学室を設けた。
翌八年に日生は後事を日尊に託して帰洛する。
日尊は飯高の城主平山刑部の庇護をうけてこの講室をもり立て、天正一九年に徳川家康から三〇石の朱印をうけ、慶長元年(一五九六)には大講堂を建立、法輪寺と号してその初祖となり、飯高檀林と称した。
慶長三年に両山(本門寺・妙本寺)は四一歳の日尊を猊座に迎えたが、在山わずか五年、慶長八年三月一六日に入寂する。
その間真俗の信望厚く、また不受不施派の祖妙覚寺日奥とも親交があり、高徳の名僧と尊敬された。
著書に『開目抄註釈』『集解要文』『与日奥書』などがある。
《『本化別頭仏祖統紀』、『日蓮教団全史』上、影山堯雄『諸檀林並親師法類』、石川存静『池上本門寺史管見』、『日本仏教人名辞典』「日尊」の項》