妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

日生(教蔵院)

にっしょう #2832

日生(教蔵院)

にっしょう

(一五五三-九五)
字は慧・春陽ともいい、蔵院と号す。
播磨(兵庫県)に生れ、俗姓は赤松支族の鳥井氏。
永禄六年(一五六三)に一一歳で京都立本寺の善住院日経に師した。
寺日禛はその才能を知って叡山に遊学することを勧める。
叡山には当時宗門の俊秀で日禛の弟子日尊と下総飯塚の学徒日統がおり、この三者は互いに切磋琢磨し交情を深めた。
のち岡山の蓮昌寺に参った折、同寺の檀那某が日生の器量に感じて長く外護することを約した。
正二年(一五七四)、二二歳のとき洛北の松ケ崎山内杉谷僧都谷に寂寞の地を得て、かの檀越某の資助で庵室(現在の京都市左京区の本泉寺)を設け、天台三大部の研鑚に励んだ。
これを聞いて遠近の学侶がえを乞うて雲集、日生はここで『法華文句』を三-四年間にわたってずる。
伝説によると、この年の七月一日に日生が京都に往こうとして庵室から数千歩の所にある農民の小屋で休んだ。すると叡山の方から書籍の落紙二-三張が風にただよって飛んできた。恠異の思いをして拾い読んでみると、かねて研究の法門である宝地房の私記であった。早速叡山に登り秘笥を調べると、これが叡山論場の至宝であることがわかった。
慶長一六年(一六一一)にこの著が梓行されたのは、まことにこのの日生の力によるという。
この逸話がすべて実とは信じ難いが、日生が宝地房證真の『天台三大部私記』の研究で、その再来といわれたほどの学匠であったことと併せ考えて興味深い。
この頃京都妙覚寺の不受不施義の学匠日典に師したと伝えられるが、これは岡山蓮昌寺と本末関係によるものであろう。
正元年に日統が下総に帰り、飯塚光福寺で学室(飯塚講肆)を構え、同五年院日円、智寂院日豪、祥智院日豪、中正院日友、真応院日達、淳誉院日堯らの俊秀が集まり、関東における檀林学が次第に熟成されていった。
ところが正七年に日統が入寂し、遺命で講肆を継承したが、異端の者が党を結んで反抗したので、仕方なく隣村内山村に学室を移した。
しかしここにも反対派の手がのびて安住することができず、日生はあきらめて帰洛しようとする。
そのとき隣郷飯高の城主平山刑部と村老の林某が妙見菩薩の夢告をうけたという伝説がある。
その夢告は「我に高客あり、その高客を妙見の社地であるこの飯高にとどめよ」というものであった。
林某は帰洛しようとする日生を妙見社前に出迎え、平山刑部ともども歓待をつくしてこの地に留ることを請うた。
日生もこの好意をうけて妙見菩薩所縁の妙福寺で講筵をはり、やがて学徒が雲集して根本檀林と称される飯高檀林発祥の地となる。
本宗の学侶はまず南都・叡山に遊学ののち、日生に宗旨をさぐり、別頭の教決を禀けるのが勉学の方向とされ、三大部の鼻祖と尊称されたのである。
翌八年に帰洛して松ケ崎で『法華文句』を講じ、同一〇年に岡山蓮昌寺の招請を受け、同一五年京都立本寺九世に晋董する。
文禄三年(一五九四)に立本寺を辞して松ケ崎に帰住したが、翌四年七月二四日、四三歳で入寂した。
一説では日生入寂の頃の立本寺貫首は一一世日抽であったから、日生はおそらく加歴ではなかろうかとする。
また『本化別頭仏祖統紀』や『立本寺歴譜』は一二世としており、この間の情が明らかでない。
やはり名利より学問を選んだ清僧として、むしろ大山の貫首というより、飯高・松ヶ崎両檀林の祖とするにふさわしい生涯といえよう。
著述には『諸部私訣』『与俵屋常元書』などがある。
《『本化別頭仏祖統紀』、『日蓮教団全史』上、影山堯雄『日蓮教団史概説』、向『諸檀林並親師法縁』、『身延山史』、『日本仏人名辞典』「日生」の項》

← 事典トップ