日審(霊鷲院)
日審(霊鷲院)
にっしん
(一五九九-一六六六)
字は文嘉、霊鷲院と号す。
京都立本寺第二〇世。
近世初期の代表的布教僧。
江村久茂の三男として京都に生れる。
八歳で慧光寺日玄について出家。
一七歳の時、京都松ケ崎檀林に学び、次いで求法院檀林、関東飯高檀林で修学。
三一歳で小浜長源寺住職となり、翌寛永七年(一六三〇)から同一七年まで九州肥前本経寺・妙法寺を拠点に九州地区を布教。
この間『法華口演抄』を著し、また寛永八-九年頃には北陸金沢にも布教した(『本化別頭仏祖統紀』)。かくて京都求法院檀林化主となる四三歳に至るまで、諸国を布教して廃寺を興し、説法七〇〇〇余座におよんだという。
寛永一八年求法院檀林第六世化主となり、『法華玄義』『法華文句』を講ずること五年、正保四年(一六四七)には京都立本寺第二〇世となる。
日審四九歳の時である。
立本寺貫首となって以降、その布教はいっそう活発となり「法を演ること一万余座、席上の法譚又一万余座、親ち満荼羅を書すること十万余幅、受法の者九万余人」(『草山集』)という。
事実、日審授与の曼荼羅本尊は現存するもの非常に多く、それが各地に散在する。
その授与年代を見ると、この頃から非常に増加するのも、このことと大いに関連すると思われる。
また万治元年(一六五八)一一月以前から、京都立本寺を中心に京都諸寺で連日、法華経の談義を系統的に行っている。
日審の談義は例えば京都の都市商工人信徒に対しては、商人の商行為、営利行為を積極的に肯定し、法華経を商行為という日常の社会生活に即して説きあかし、法華信仰を現実の社会生活の中に生かしつつ指導するなど、それぞれの地域における生活に即応した教説を説きあかした。
また、その布教態度は折伏的ではなく、摂受的、寛容である。
しかし聞法者に指導した仏法修行は「イカニ学証タリトモ、題目一返ニテ成仏成カタキトノ心得ノ人ハ本化ノ流レニアルマジキ」(聞書)とする、瞬時の不信も許さない絶対的な題目信仰であった。
そこに心性院日遠が「本化の宗興てより蓋し一人のみ」(『草山集』)と日審を嘆美し、日審と同時代の草山元政もまた「実に末世の唱導本化の宗師也」(『草山集』)と評価した理由があると考えられる。
寛文元年(一六六一)には立本寺の大修理に全力を傾け、寛文六年三月一五日に没した。
著書に『法華口演抄』『法華座敷談義』『円頓者講草』がある。
《影山尭雄『日蓮宗布教の研究』、冠賢一「霊鷲院日審の法華経談義」『大崎学報』一二九号、宮崎英修『日蓮宗の人びと』、『日本仏教人名辞典』「日審」の項》