二乗作仏
二乗作仏
にじょうさぶつ
法華経迹門に説かれる教説を総括した術語で「二乗成仏」ともいい、声聞乗・縁覚乗の二乗が成仏することをいう。
また小乗の機に授記=未来成仏の予告と保証をしたことから「記小」ともいう。
声聞とは仏の言教を聞いて四諦の理を観じ、三生六十劫の修行を経て阿羅漢を証する者をいい、縁覚(独覚)とは十二因縁を観じて証りを開く者をいう。
これら声聞・縁覚の二乗は、自己の解脱のみにとらわれて他を顧みることなく、自己独り尊しとする独善主義に陥っている者である。
そこで法華経以外の諸大乗経においては、上求菩提下化衆生の菩薩乗の立場に立って、これら二乗を仏種を断じた者とし、仏に成れない者と破折し、また小乗と貶しめ、「敗種」「焦種」とも非難されるのである。
他人の救済を志さない利己主義的な二乗根性を弾呵する諸大乗経の文は『開目抄』(定五四三頁以下)に引用されているが、その代表的経典は『維摩経』である。
そこでは仏の呵責を蒙り「迦葉尊者の渧泣の音は三千をひびかし、須菩提尊者は亡然として手の一鉢をすつ。舎利弗は飯食をはき、富樓那は画瓶に糞を入ると嫌はる」(定五六三頁)に至る。このように諸大乗経では二乗を最も救済し難い者として嫌い、そのため一方では三乗各別の思想に陥らざるを得なくなった。
そこで法華経は、この三乗各別の思想を打破し、一仏乗の思想に開会しようとする。
従って二乗のような独善主義者を仏乗に帰入せしめることが根本問題となる。人間性に目覚めない悪人や愚人はなお度し易いが、善人・賢人をもって自任し、既に阿羅漢を得たりと、覚者の自覚に達した二乗を度することは至難である。
それゆえに諸大乗経は二乗の成仏を否定したのであるが、法華経はその成仏を説くのであり、ここに法華経の一大特色がある。
これを天台大師智顗は『摩訶止観』巻六下に「華厳・大品は之を治すること能はず。唯法華のみ有りて能く無学をして還って善根を生じ、仏道を成ずることを得せしむ、所以に妙と称するなり。又闡提は心有り、猶ほ仏と作るべし、二乗は智を滅す、心生ずべからず、法華能く治す、復た称して妙と為す」と述べている。
更に妙楽大師湛然は『止観輔行』巻六下に「華厳より已来大品に至るまで、世間の薬の被閹の人を治すること能はざるが如し。諸大乗経に諸法を融通し、菩薩の観門願行該括すれども、二乗をして発心せしむること能はず。等しく是れ融通せば、何ぞ融して二乗をして仏と作さしめざる。但だ座に在て聾の如く唖の如し。乃至自ら敗種を悲しみ、上乗を渇仰し、我が為に斯の真要を説きたまはずと。唯法華に至りて記を得て喜を生ず。徧く法華已前の諸教を尋ぬるに、実に二乗作仏の文及び如来の久成を明せるの説無し。故に知んぬ、並びに方便を帯するに由るが故なり。若し爾ずんば、豈に部の円妙、独り二乗を隔てんや。(略)故に法華の中の三周の授記に、偏へに声聞を語るは、余経に説かざる所を顕はさんが為の故なり。是の故に委しく劫・国の名を授く。菩薩の授記は処々に文有り。故に但だ通途に当に作仏すべしと云う。乃至本門の某の生に当に法華を妙と称することを得べし。斯の言凭るべし」と釈している。
日蓮聖人も法華経の教説の特質を「此に予愚見をもて前四十余年と後八年との相違をかんがへみるに、其相違多しといえども、先づ世間の学者もゆるし、我が身にもさもやとうちをぼうる事は二乗作仏・久遠実成なるべし」(『開目抄』定五四二頁)と述べて、迹門所顕の二乗作仏と本門所顕の久遠実成とを法華経における「二箇の大事」と称されている。
更に『大田殿女房御返事』(定一七五四頁)に、二乗の成仏こそ真の妙であり、即身成仏は法華経に限ると説示されている。
なお諸大乗経中『楞伽経』『方等陀羅尼経』等に、二乗作仏の説が見えるが、湛然が「今の法華は是れ顕露の記なり。方等の隠密に記を与へるには同じからず。(略)三義並に法華に異なる。当に知るべし、大慧密説を発起す。是の故に授記の事を発問す。故に知んぬ。彼の経は義、方等に屈し法華と異なること豈に固く論ずることを待たんや」(輔行巻六下)と評破しているように、密説たるのみならず、法華経の如き開顕の上の成仏ではなく、有文無義の方便仮説にすぎないのである。
法華経に来って十界互具が成立し、一念三千の法門が説かれ、初めて成仏の記別が与えられるのである。
聖人によれば、この二乗作仏も本門の開迹顕本によって根拠づけられるものとされている。
即ち久遠実成に根拠する一念三千の成仏でなければ真の成仏とはならないことは、聖人が『開目抄』『本尊抄』等において繰返し力説されている。
法華経における二乗作仏の強調は、即ち一切衆生悉皆成仏を意味するものである。
従って法華経は単に二乗の成仏を説くのみでなく、法師品では一偈一句に一念随喜する一切衆生に記別を与え、提婆品では五逆の悪人たる提婆達多の成仏と畜身の竜女の成仏を説き、勧持品には耶輸陀羅女等の女人の成仏を許し、不軽品では謗法の増上慢の者の成仏を説くのである。
法華経の一代超勝の理由はここにある。
《『遺文辞典』教学篇「二乗作仏」の項、『日蓮辞典』「二乗作仏」の項》