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人開顕

にんかいけん #483

人開顕

にんかいけん

法開顕に対する語。
(一)人開会(にんかいえ)と同義。
法華経以前の諸経で成仏が許されなかった二乗(声聞・縁覚)、悪人、女人、一闡提(断善根とも。成仏の因となる仏種がない者。さらには、正法を誹謗して成仏の可能性を失った者)等を開顕会融して成仏の道を得せしむる法華経の特色的法門
法華経が説かれるまでの四十余年のの諸経では、自利行のみの声聞・縁覚の二乗の人々を永不成仏として排斥してきた。
ところが法華経は一転して、その迹門二乗作仏を繰返し説くのである。
この二乗作仏久遠実成という法門をもって日蓮聖人は法華の最勝性を証明するのであるが、『開目抄』の中で二乗作仏を論じて『維摩経』では五逆罪もまた仏種となるべし、二乗は仏になるべからずと説き、『方等陀羅尼経』では二乗を枯木、磁石、燋種に喩え、『大品般若経』では二乗は菩提心を起さずといい、『首楞厳経』では破器の如しという等と、諸経を引用し、「四十余年が間、無量無辺の経々に、無量の大会の諸人に対して、一言もゆるし給ふ事もなくそしり給」、しかるに、「後八年の法華経に忽ちに悔還して、二乗作仏すべしと仏陀とかせ給はん」(定五四六頁)と、この大きな相違を力説している。二乗作仏をいうのは、法華経が十界成仏の完全な円教であることをいわんがためであり、この経は一人も漏れることなく一切衆生を救済するのである。五逆罪の堤婆達多も八歳の竜女もたちまちに成仏できる開会の経が法華経である。
《『台学辞典』「人開会」の項》
(二)古来日蓮宗では日蓮聖人が佐渡流罪中に著した『開目抄』を人開顕の書と称している。
人開顕とは「法を弘める人」を開示顕現するということで、日蓮聖人自身を法華経の文上に乗せて解明したのがこの『開目抄』であった。
「日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑のに頸はねられぬ。此は魂魄佐土のにいたりて、返年の二月雪中にしるして有縁の弟子へ」(定五九〇頁)〉送り「かたみともみるべし」(同)という重大決意で記された本書には「我身法華経の行者にあらざるか。此の疑は此の書の肝心、一期の大事なれば」(定五六一頁)と告白されて、自らの法華経に命を捧げた半生に徹底的なメスを入れ、一体日蓮とは如何なるものなのかを追求し、その頂点で「我れ日本の柱とならむ、我れ日本の眼目とならむ、我れ日本の大船とならむ、等と誓いし願、やぶるべからず」(定六〇一頁)と法華経の命として還ってきた日蓮聖人自身を明している。
この書において聖人は自らこそが法華経に予言された末法の唱導師本化地涌の菩薩であるとの自覚を顕説し、凡夫日蓮から聖者日蓮へと飛躍している。「人開顕」とよばれるゆえんである。
「開目」とは自己の目を開いて自己自身を法華経から証明することであり、同末法の衆生の盲目を開かせて一乗法華経に帰入せしめることである。そのため、末法正法を開顕することにも精力が注がれている。
その『開目抄』によって明された聖人の根本教義が、翌年整理されて『観心本尊抄』となるのである。
本尊抄』は「法開顕」とよばれているが、正法を表として正師を顕さんとし、『開目抄』は正師の解明を表としながら正法を開くのである。
ここに開・本両抄を表裏一体として日蓮聖人宗教をみてきた本宗の伝統がある。
《『遺文辞典』教学篇「人開会(にんかいえ)」「法開会」の項、『日蓮辞典』「人開顕」の項》

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