法開顕
法開顕
ほうかいけん
人開顕に対する語。
(一)法開会(ほうかいえ)と同義。
教法を開顕会融すること。
法華経以前の方便権教を開いて、法華一乗の真実教に帰入せしむること。
『無量義経』に「方便力を以て四十余年未だ真実を顕わさず」とあり、それに対して法華経法師品に「方便の門を開いて真実の相を示す」とある。
釈尊は衆生の機根に合せて種々の権教を説いてきたが、霊鷲山の八年間初めて随自意の一切衆生を「如我等無異」にする真の成仏教『妙法蓮華経』を説いて、それまでの諸経を法華経の体内で統一会融した。
これを法開顕(法開会)という。
教法の開会に対し、二乗・悪人・女人等の不成仏の人間を法華経が開会して成仏させることを人開顕(人開会)という。
天台では爾前の円教(円満の理を説く教)には法開会の一分はあるが人開会はないとする。
「(他経は)但だ其の法を会して、未だ其の人を会せず、此の経は人・法・行倶に会す」(玄義九)。
日蓮聖人はこれを受けて『一代聖教大意』に「少々開会の法門を説く処もあり、所謂浄名経には凡夫を会す。煩悩悪法も皆会す。但し二乗を会せず。般若経の中には二乗の所学の法門をば開会して、二乗の人と悪人をば開会せず。観経等の経に凡夫一毫の煩悩をも断ぜずして往生すと説くは、皆爾前の円教の意也」(定六四頁)といい、『浄名』『般若』等には確かに悪法や二乗の法の開会はあるが、それは爾前の円という不完全な中でいうのであり、法華の円教に比べればはるかに低劣で、人開会もない以上、その法開会も真の法開会とはいえず、結局開会は法華経に限るという立場をとるのである。
《『天台学辞典』「人開会」の項》
(二)古来日蓮宗では日蓮聖人が佐渡流罪中に書き著した『観心本尊抄』を法開顕の書と称す。
『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』は、その送り状に「此の事日蓮当身の大事なり」「仏滅後二千二百二十余年未だ此の書の心有らず。国難を顧みず五五百歳を期して之を演説す」(『観心本尊抄副状』定七二一頁)とあるように、聖人の思想信仰の根幹を吐露した最高の教義書であり、そこに開顕された法門は「始」とその御自題にあるように仏教思想史上未曽有の大秘法であったのである。
聖人はすでにその前年に著述した『開目抄』に、末法唱導師日蓮として本化上行の自覚を宣明して「人開顕」を行っている。
従って次に、その仏使日蓮が弘伝する法の開顕が要請されていたわけである。
つまり本化と自認するならば本仏から直接相承された本化別頭の法を顕示しなければならない。
本書は法華経色読の行者が「活きた法華経」となってその自内証を言表し、末法万年の衆生救済の大直道を樹立したものである。
その内容は「観心本尊」とあるように、三大秘法のうち、本門の題目と本門の本尊を顕現し、本門の戒壇を密釈したもので、題目段・本尊段・弘通段の三段に分けられる。
一念三千の出処から始まり、理論としての一念三千論が次第に事的展開をして十界互具論に絞られ、仏種論で転換していっきに受持譲与論に入り、有名な四十五字法体段が説かれる。
こうして大曼荼羅の世界が顕立されて、末法流通の正法と正師が証されるのである。
「法開顕」の書とよばれるゆえんである。
《『遺文辞典』教学篇「法開会(ほうかいえ)」「人開会」の項、『日蓮辞典』「法開顕」「人開顕」の項》