四十五字法体
四十五字法体
しじゅうごじほったい
『観心本尊抄』の「今本時の娑婆世界は三災を離れ四劫を出たる常住の浄土なり。
仏既に過去にも滅せず未来にも生ぜず。
所化以て同体なり。
此れ即ち己心の三千具足三種の世間なり」(定七一二頁)の文をいい、この原漢文が四十五字であることから、古来より四十五字の法体、あるいは四十五字段、四十五字法体段という。
この呼び方は『御書鈔』『録内啓蒙』等には見えないようであるが、管見の限りでは一妙院日導の『祖書綱要』が初見である。
即ち「其の三千の法体今本時等の四十五字是を文底秘沈と曰う」(日全本一八九頁)と記されている。
さて、このような呼称は『観心本尊抄』の他の箇処でも見られ、例えば「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す云云」(定七一一頁)の三十三字、「其の本尊の為体(ていたらく)、本師の娑婆の上に宝塔空に居し云云」(定七一二-三頁)の八十九字、流通分の「此の時地涌の菩薩世に出現し云云」(定七一九頁)の三十三字、また総結の文「一念三千を識らざる者には云云」(定七二〇頁)の五十五字等、それぞれ原文の字数をもって言い表すことにより、本抄の教義の大きな支柱であることを指摘してきたのである。
なかでもこの四十五字段は根本理法たる本門の事の一念三千の概念的表現であって、前後の各文とも深く関わりをもち、また久遠釈尊と題目受持者(行者)との本感応妙の世界が開顕されていることから「四十五字法体」と呼んで大切な文字と見てきたのであろう。
まずその大意を示せば、この四十五字段の次上には爾前・迹門の教主(迹仏)及びその依報である仏国土(迹土)が無常であることが明かされる。
つまり爾前・迹門において、いまだ教主の久遠常住が顕わされなければ、みな無常変現の身・土であることはまぬがれないのであり、それらは迹仏・迹土にすぎない。
いま、本門寿量品で教主釈尊の久遠常住が開顕されることによって、釈尊の所依の国土である娑婆世界は、釈尊が成道せられたときの久遠本時の永遠なる常寂光土である。
従ってこの本国土妙たる娑婆世界は、成劫のときにおこる大飢饉・大疫病・大刀兵(小の三災)や壊劫のときの火災・水災・風災(大の三災)等のような異変はなく成・住・壊・空の四劫の変遷を超越した常住の浄土である。
即ち過去・現在・未来の三世の遷流を越え、十方世界がことごとく垂迹の土であるのに対し、本国土妙としての三世常住の浄土がこの娑婆世界である。
このように教主釈尊が居住せられる世界―依報が常住であることは、身土一念三千(妙楽)の立場から導かれるように、居住する仏が常住の存在だからである。
仏はすでに日蓮聖人が「無始の古仏」と述べられるように無始実在であって、過去に滅せられることもなく、従って未来も常住であれば垂迹示現の仏として未来に生ぜられることもない。
不生不滅、無始無終にして三世常住の本仏である。
これは本果妙であり「我成仏已来甚大久遠」の文に説かれるとおりである。
この能化の本仏がすでに不生不滅であれば、その所化の九界の衆生(本因妙)も、同様に久遠本時の寂光浄土に居住し、久遠以来釈尊の教化の対象となってきたのであるから、三世常住にして本仏と同体である。
それは仏界も無始の九界に備わるという本因妙を表すのである。
これが即ち本仏の己心に具足せられる三千であり、三種の世間である。
三種世間とは、娑婆世界は依報にして国土世間、仏と衆生とは正報にして五陰世間と衆生世間であって、仏(本果妙)と衆生(本因妙)と娑婆国土(本国土妙)の三種は即ち三世間にして、本仏の久遠本時の証悟と共に永遠・絶対において価値づけられたのである。
三妙一体を説くところに本門寿量品に説かれた事の一念三千の法門たる所以がある。
しかし、本仏の己心に三妙があるのであれば、所具の九界の衆生も、この本仏果上の一念三千の法体を受持して、仏身仏土をもって「我が己心の三千具足三種の世間」としているのである。
しかし我ら末代の凡夫にとっての「己心の三千」とは無媒介に具足するのではなく「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。
我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ」(定七一一頁)と説かれている如く、妙法五字の受持を絶対行としなければならない。
妙法受持によって、本仏釈尊の因行果徳が譲与せられ、我が己心の三千とすることができる。
しかし、末代凡夫はこの一念三千を知ることは不可能である。
それゆえに本仏釈尊が大慈大悲をもって妙法五字に包まれて、我ら衆生に授与し給うのである。
本抄の総結に「一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起し、五字の内に此の珠を裏み末代幼稚の頸に懸けさしめたまふ」(定七二〇頁)と述べられていることはそのことを意味する。
以上のことから、この四十五字は「一念三千を識らざる者」といわれた、その一念三千の法体であり、「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す」、「本門の肝心南無妙法蓮華経の五字」、「但妙法蓮華経の五字を以て幼稚に服せしむ」等と記された題目の五字の法体である。
更には「其の本尊の為体(ていたらく)」と述べられた本尊の法体でもある。
また、この四十五字は『開目抄』に述べられている「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり」(定五三九頁)という、文底の事の一念三千である。
一方、神力品の別付嘱による上行応化の導師に弘通せられる要法でもある。
そのことから四十五字は妙法五字の法体であるといえるのである。
さて、この四十五字と『開目抄』との関連を一瞥してみると『開目抄』の「本因本果の法門」(定五五二頁)を注目せねばならない。
まず迹門について聖人は「迹門方便品は一念三千・二乗作仏を説て爾前二種の失一つを脱たり。
しかりといえどもいまだ発迹顕本せざれば、まことの一念三千もあらはれず、二乗作仏も定まらず。
水中の月を見るがごとし。
根なし草の波上に浮べるににたり」と、迹門の一念三千を水中の月、根なし草としてこれを破斥された。
それは発迹顕本という釈尊の久遠開顕がなされていないからであり、そこには真の一念三千も詮顕されず二乗作仏も定まらないというのである。
それは方便品の十如実相・一念三千は「唯仏と仏とのみよく究尽」したもう理法であり、一念三千は仏の境界のものであって、九界のおよそ知ること能わざる世界である。
それは九界における一念三千は「理」に属し、凡夫己心に三千の理を事証することは不可能である。
しかし本門では「本門にいたりて、始成正覚をやぶれば四教の果をやぶる。
四教の果をやぶれば四教の因やぶれぬ。
爾前迹門の十界の因果を打やぶて本門十界の因果をとき顕はす。
此れ即本因本果の法門なり。
九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界に備て、真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし」(定五五二頁)と、発迹顕本によって久遠本仏が顕されることによって、爾前・迹門に説かれた蔵・通・別・円の四教の迹果が捨棄されたのである。
従って四教の仏果が破れたことから四教の仏因も打ち破れたのである。
この迹因・迹果が破斥されることによって、本因本果の法門が成立し、そのことが九界即仏界、仏界即九界という本門の無始の十界互具となって、真の一念三千となるのである。
このように『開目抄』では仏因仏果に約して、迹因迹果を超越するものとして本因本果の法門が説かれ、四十五字は仏身仏土に約して、迹仏迹土を廃して本仏本土が開顕されたものである。
そのことから本門の事の一念三千の義においては本仏自証の一念三千ということで、同義と見做すことができる。
このように日蓮聖人は一念三千の法門の出処を本門寿量品と見做されたのであるが、そこに天台、伝教両大師との所依の教の立脚点の違いを明確化されていたのである。
それは教理面の違いだけでなく、行法の一念三千の違いとなって表されている。
『富木入道殿御返事』には、「一念三千の観法に二つあり。
一には理、二には事なり。
天台・伝教等の御時には理也。
今は事也。
観念すでに勝る故に、大難又色まさる。
彼は迹門の一念三千、此は本門の一念三千也。
天地はるかに殊也こと也」(定一五二二頁)と示されている。
即ち教法と行法の一念三千の両面において、天台・妙楽・伝教と今末法の日蓮とは明らかに違うと述べられている。
それは迹門の一念三千は従因至果の教法によって、心・仏・衆生の三法を妙ならしめるために立てられた行法であって、因人たる我が己心において、衆生法と仏法とを観じて一念三千の本理に称い、覚道を成ずることである。
しかし、この行法は末代凡夫にはおよそ行じ得ない道である。
これに対する本門の一念三千は、本仏果上の十妙の教法によって、三法の融妙を実現すべく立てられた従果向因の行法であって、迹門は一念三千、三千三諦の観法であったが、本門のそれは我が不惜身命の受持の一念をもって教法を信受し、本仏果上の所行を己が修行とするのである。
そこには仏心を認めて仏心とは別なる己心を認めないということになろう。
そこで問題となるのが、四十五字の「此れ即ち己心の三千具足三種の世間なり」の「己心」解釈である。
この「己心」解釈をめぐって清水龍山・山川智応は一大論争を展開した。
清水龍山は『観心本尊抄要義』『観心本尊抄鑽仰』を著し、更に『日蓮聖人遺文全集講義』で自己の説を主張し、山川智応は『観心本尊抄講義』『観心本尊抄四十五字法体段正義』を著し、更に『観心本尊抄講話』が出版されている。
清水龍山の場合は、その己心とは「我等凡夫の一心」(日蓮聖人遺文全集講義第一一巻下二七一頁)、「特定の己心ではなく、通称の十界中の随一の凡夫心」(同上二八六頁)と規定した。
これに対し山川智応は、己心とは「本仏果上の己心、及び本法受持行者の己心」(観心本尊抄講話四三〇頁)と規定したのである。
この論争はその終結を見なかったが『観心本尊抄』の文脈から考えるとき、単なる凡夫心と解釈することには問題があり、この四十五字が本仏と本化の本感応妙の絶対的時間を表し、また我々凡夫に釈尊の救済の要法が譲与され、我らがこの要法を受持する時間空間を超えた宗教的絶対現在であるとすれば、その己心とは本仏の己心であると同時に行者の己心という解釈が妥当であろう。
その本感応妙の世界こそ、我々末代の題目受持者の絶対的安心の境界でもある。
《『日蓮辞典』(東京堂出版)「四十五字法体」の項》
(北川前肇)