今本時
今本時
いまほんじ
この語句は『観心本尊抄』の四十五字段の「今本時の娑婆世界は三災を離れ四劫を出たる常住の浄土なり云云」の文に見られる。
この段は娑婆世界は三世常住にして不変の浄土たる本国土妙であると明かすところで、次下には本果妙・本因妙が説かれて三妙一体なることが詮顕されているのである。
その三妙が一体となる時間的な限定が「今本時」であって、それは久遠実成が開顕された久遠無始にして三世常住の宗教的絶対現在を意味する。
「今」とは我ら凡夫が妙法五字を受持信行する当処、実践的一瞬一瞬の時間である。
「本時」とは迹時や今時に対する概念で、本門寿量品で開顕された久遠無始であり、その過去久遠に託して顕された三世常住-宗教的永遠-なる時間を指す。
『観心本尊抄』の文脈に戻ると本時とは娑婆世界を限定し、しかも所有格の「の」が置かれている。
つまり寿量品に説かれる釈尊の依報(国土)である常住の娑婆世界は「今時」や「迹時」の娑婆ではなく「本時の」「娑婆世界」ということになる。
「本時」における娑婆が常住不変たる寂光土というのである。
「本時」の語は天台大師の『法華玄義』七上や『法華文句』に見られる。
その一、二の例を挙げれば『玄義』の場合、六重本迹の「理事本迹」の段に「無住の本より一切法を立つ。無住の理即ち是れ本時の実相真諦也。
一切法即ち是れ本時森羅の俗諦也」とある。
この段は理本事迹を説くもので、理が本地で事が垂迹である。
理は諸法実相、法性の真諦であって、この法性は何物から派生したものでもない。
自性なく、住著するところなくして、縁に随っておこる無住なるものである。
故に諸法実相の理を本とする。
これに対する「事」の俗諦は、この理の上に縁起せられたものであるから迹とする。
しかし「本迹殊なりと雖も不思議一なり」の立場であって、本迹不二を目指している。
このことから「本時の実相」「本時の森羅」とは、縁起の法は無始であり、初めがあるとすれば法性の性格を失うことから、無始あるいは本地ということになろう。
また「本門十妙」を明かす段に「本時」の語がしばしば用いられているが、これは伽耶始成の迹時や今時ではなく、久遠本地が開顕された時間を意味することから、久遠無始ということになる。
また『法華文句』九下には、久遠本仏の三身が論じられ「三身の種々の功徳は悉く是れ本時の道場の樹下に先に久しく成就するところにして、之を名けて本と為す。
中間は今日寂滅道場に成就する所の者、之を名けて迹と為す」とある。
この文からも本時とは寿量品の久遠を意味することは明らかであって、日蓮聖人が「本時の娑婆世界」と表現されたのは、この天台大師の用語を受けられたものといえる。
さて『観心本尊抄』では「本時の娑婆世界」の上に「今」という語が置かれている。
この「今」とはどのような意味であろうか。
一般に「今」とは我々が日常体験している移り行く瞬間、瞬間の時の意味がある。
即ち自然的な時の流れで、未来から現在、過去へと滅びゆく不可逆の時間である。
あるいは現在に近い一定の時間や、時期を統括して「今」という語を使用する場合もある。
聖人もしばしば「今」という語を用いられるが、単なる文章を起す軽い意味の「さて」を指す場合もあり、「今末法の始め二百余年なり」(定五五九頁)、「今の世の念仏者・禅宗・律宗等の法師」(定五六〇頁)と述べられるように、社会的・歴史的現実を指す場合の歴史的時間の意味をもつものもある。
更に宗教的な「永遠の今」「絶対現在」を意味するものもある。
それは信仰的体験の時間であり、宗教的純粋時、絶対的宗教時と称することもできる。
『開目抄』には「今華厳の台上・方等・般若・大日経等の諸仏は皆釈尊の眷属なり」(定五七六頁)とあって、この「今」とは次上の「此の過去常顕る時」を指している。
即ち過去常とは過去常住にして無始の義であり、始成正覚の釈尊が、本門寿量品に来りて絶対仏として久遠の寿命が開顕された時ということを指している。
また同抄には釈尊の正報の常住と合せて、依報の久遠が顕されているが、その段には「今爾前迹門にして十方を浄土とがう(号)して、此土を穢土ととかれしを打かへして、此土は本土となり十方の浄土は垂迹の穢土となる」(定五七六頁)と説かれている。
この場合の「今」も前文と同意であり、本門寿量品の久遠の開顕のときをいうのである。
以上のことから推測するとき『観心本尊抄』の「今」とは本門の発迹顕本のときということになる。
『日蓮聖人御遺文講義』には「今」を釈して「昔の爾前諸経、前の迹門、次の涅槃経に対しては本門の諸説を今といふ。
正しくは寿量品に『我実成仏已来』と説き、久遠常住を顕せる時をいふ」(二四八頁)と釈されている。
この解釈を更に信仰的な主体性をもって表現するならば、釈尊の寿命は常住であり、常にこの世界において救済活動されているのであることから、「今」とは法華経への信仰、妙法五字を受持する刹那・刹那を指すものであろう。
それは「永遠の今」である。
そしてまた日蓮聖人は法華経の弘通のゆえに、法難を蒙られたが、その受難を通して釈尊の受難と自己の受難とを重ね合せられた。
そして釈尊在世と末法の今とを同一の時間性として認識されている。
それは「在世は今にあり、今は在世なり」(定九七一頁)という表現である。
ここに宗教的体験時と宗教的歴史時の両面があるといえよう。
このことから「今本時」とは本門寿量品の久遠無始の開顕という概念と、それを信仰的に主体化した場合「永遠の今」の現成であるということになるのである。
しかも聖人にとっては、法華経の信仰ゆえに種々の法難が惹起されるという面をもつことが理解されるのである。
このことから「今本時」とは能化の仏と、所化との本感応妙の世界をいう。
つまり久遠の本時の釈尊の絶対的な大慈悲の中に衆生が包摂される信仰的世界をいう。
《『遺文辞典』教学篇「今本時」「今」「本時」の項、『日蓮辞典』「本時」の項》