仏立宗
仏立宗
ぶつりゅうしゅう
(一)仏の立てたところの宗の意で、天台法華宗のこと。
『太田入道殿御返事』の「伝教大師の云く、仏立宗云云」(定一一一七頁)とは、伝教大師最澄著『法華秀句』の「天台所釈の法華の宗は、釈迦世尊所立の宗」をいう。
(二)幕末、長松日扇(清風、一八一七-九〇)によって開かれた本門仏立宗のこと。
日扇は三二歳の時、本門法華宗の僧となるが、還俗し安政四年(一八五七)正月一二日、京都で在家信者中心の本門仏立講を開いた。
その教義は信とは唱題の利益を信ずることであるとし、経力唱題の現証利益を絶対に信ずるという立場に立つ。
在家中心主義を唱え、折伏弘通によって京都・大津・大阪等、畿内の都市商工人信者を獲得していった。
元治元年(一八六四)大津六四箇寺院から弾劾され、明治元年(一八六八)には切支丹の邪法を使って世人を誑惑するという罪名で投獄されるなど、はげしい弘通活動によって入牢三度、追放八度の弾圧を受けた。
しかし、それを乗越え明治一一年には「花洛仏立講三十三組、人数凡そ一万人」と、その基礎は固まっていった。
仏立講は既成宗教にあきたらない多くの人々を結集した宗教改革運動であったが、近代の明治社会にも対応しつつ発展し、近代の法華系在家教団の源流となった。
明治二二年本門法華宗は、清風に日扇上人の諡号を追贈し大僧正に叙した。
日扇の門下、御牧現喜日聞、野原弁了日随、現随日教は八品教団との間に融和策をとり、講勢の拡大と門下の育成に努め、関西、関東にその教勢を伸ばした。
昭和二一年(一九四六)本門法華宗から独立し、本門仏立宗となった。