法華文句記
法華文句記
ほっけもんぐき
一〇巻、または三〇巻、中国天台宗第六祖荊溪湛然(七一一-七八二)の著作で、天台大師智顗が講説した『法華文句』の注釈書である。
『正蔵』三四巻所収。
『疏記』また『記』とも呼ばれる。
乾淑の『道邃和上行迹』によると、湛然は常州の妙楽寺で講経したことが伝えられているが、その年次が示されていない。
恐らくは湛然が乾元年間から上元年間(七五八-七六二)にかけて、湛然の故郷である毘陵の妙楽寺に帰った時のことと思われるが、しかしまた大暦年間(七六六-七七五)に湛然が故郷に帰った時に講説されたものとも考えられる。
この講経の年次を知ることは本書がいつ作成されたかを知るための、一つの重要な資料になるので、『道邃行迹』の文を考察してみると、その文に道邃は湛然の講経を夢みて、常州の妙楽寺へ馳せ赴いたとあり、それ以前には道邃は天台円頓の宗旨を聞いていなかったとあるので、恐らくこの時に道邃は湛然に初めて師事したものと思われる。
そしてこの点が湛然の講経の年次を知る一つの手がかりとなる。
即ち道邃の事蹟を説くものには、およそ、『仏祖統紀』巻八・巻四一、『宋高僧伝』巻二九、『天台九祖伝』附録道邃行迹、『内証仏法血脈譜』、『顕戒論縁起』、『釈門正統』巻二があるが、『仏祖統紀』巻四一には湛然は仏隴において大暦三年(七六八)、道邃のために止観の法門を授けたとある。
『仏祖統紀』巻八には道邃は大暦の中頃来って、荊溪によって仏隴において洞に幽玄を悟ったとある。
『宋高僧伝』巻二九には湛然は大暦の中頃、道邃に『止観輔行記』を委付したとある。
『釈門正統』巻二は、この『宋高僧伝』と同じである。
『内証仏法血脈譜』、『顕戒論縁起』は共に前述の『道邃行迹』と同文である。
すると、このうち『道邃行迹』と『内証仏法血脈譜』と『顕戒論縁起』には講経のとき道邃は湛然に初めて師事したとあり、また前記四文献はそのすべてが大暦年間に湛然に師事したとある。
しかもその年次は『仏祖統紀』巻四一によって、大暦三年であったことが分る。
そしてこの年に湛然は道邃に『止観輔行』を授けている。
湛然が道邃に『止観輔行』を授けるには、それ相当の教導をしてより後のことと考えられるが、そうであるとすれば道邃は湛然に大暦三年以前に、既に相当期間師事していたことが考えられる。
このことから考えれば湛然の講経は大暦年間以前、湛然が乾元から上元にかけて、毘陵に滞在していたときになされたものと思われる。
しかしながら本書の完成年次については、本書の巻末に含光の記事のあることから、そのおよそが推定出来る。
即ち本書巻一〇下に、湛然が江淮の四〇余僧と共に五台山に参詣したおり、下空三蔵の門人である含光が不空のために修造していたのをみたという記事である。
このことがらは、『宋高僧伝』巻二七の含光伝にも記載されていることであるが、不空三蔵の寂年まもなくして、湛然は含光と五台山であっていることは確かであって、本書巻一〇下の記事を裏付けることは可能であろう。
含光の師範である不空三蔵は、大暦九年(七七四)六月に示寂していることが、『仏祖統紀』巻四一の記述によって明らかである。
この不空の寂年である大暦九年に、湛然は江淮の僧達と共に五台山に赴いたと、その年月を判断することが出来る。
そしてこの含光の記事が本書にある以上、本書は少なくとも、七七四年以降の完成ということになろう。
更にそれが巻末にあってみれば七七四年を降ること時ならずして、本書は完成をみたのであろうと考えられる。
さて湛然は大暦一二年(七七七)以前に『法華文句記』を完成させていると考えられる。
このことは『天台九祖伝』に大暦一二年、湛然は此本(この場合恐らく止観輔行)に玄疏両記を合せ、三〇巻を大蔵に寄せたと記されていることによる。
このことから湛然は大暦一二年か、あるいはそれ以前に本書を完成していることは明らかであって、この場合、大暦一二年に『文句記』が完成し、湛然は既に完成していた『輔行』、『玄籤』を合せて、大蔵に寄せたと考えられる。
更に本書は何処で完成をみたのであろうか。
この場合、『天台九祖伝』の文から思考すると、湛然の親書は、姑蘇(蘇州)の開元寺大蔵に寄せられている。
従ってまず湛然が本書を完成したとき、湛然は蘇州にいたと推測出来る。
この場合、湛然は大暦一〇年(七七五)には蘇州にいたことが既に判明しているが、それ以後も引続き蘇州に滞在していたといえる。
けれども、『九祖伝』の文には、湛然が当時蘇州にいたとは記されていないので、他の場所から親書が姑蘇の開元寺に送られたことも思考される。
この場合、湛然は毘陵の妙楽寺で『文句記』を完成し、そしてその親書と共に『文句記』を含む三大部註書を蘇州の開元寺に送ったのではないかとも思われる。
しかし、これらはいずれにしても想像の域を出ない。
けれども本書はおよそ乾元から上元(七五八-七六二)にかけて、湛然が故郷である毘陵に滞在していた時、妙楽寺で講経した講本を基に、『止観捜要記』の完成(大暦初期)後、更に確実にいえば、『止観輔行』が完成した永泰元年(七六五)以降に具体的に整理・記述され、それは大暦九年(七七四)以降、大暦一二年以前に完成をみたことは確かであろう。
本書は三〇巻(あるいは調巻によって一〇巻または二〇巻もある)本であるが、その内容は既に述べた如く、智顗説の『法華文句』の註書であり、その文々句々を忠実に解釈し、他の三大部の註書である『摩訶止観輔行弘決』、『法華玄義釈籤』と共に古来より最も多く読まれた著述であり、従来天台教学の研究者にとっては欠くべからざる重要文献である。
本書において最も注意すべきことは、巻第三下の十種権実と十妙、第四中の十如義、第四下の十雙歎、第六上の観心十徳と十法成乗、第七上及び第九中の華厳・法華の同異、第八之三の一念十戒、第八之四の円の三学、第九下の三身、第一〇上の修性三因仏性であるといわれ、また三論の吉蔵、華厳の法蔵、澄観、法相の窺基らの所説を評破した点も注目に価する。
このうち法相宗の窺基等を対破したことは、それがほぼ確実なことであって、湛然が別して著したところの『法華五百問論』の所説と密接な関係のあることが知られる。
この意味は当時の湛然の時代背景を知る一つの事柄であって、今後十分に検討されるべきことであろう。
さて更に華厳の法蔵・澄観の所説を評破したのは、主として教判の上における問題である。
この事柄については、ただ単にそれら華厳教学を評破しているとみるだけでは不十分であって、それは極めて表面的なことであり、湛然はむしろ華厳の教理論を熟知し、それを活用することによって祖師である天台智顗の教学を解釈したとみるべきである。
ただ単に智顗の所説を忠実に解釈したとすることは納得出来ないし、湛然は自己の天台学を体得した上で、その主体性に立って智顗教学を解釈したとみるべきであろう。
註書には『法華経疏義纉』六巻、唐智度撰。
『法華経文句記箋難』四巻、宋有厳撰。
『法華経文句記補註』七巻、従義撰。
『法華文句記講録』五〇巻、光謙撰。
『法華文句記講義』一五巻、癡空撰。
『法華文句記講述』三巻、守脱撰などがある。
日蓮聖人は教学体系化の論理的依文として天台三大部および他の末註と共に本書を多く引用されている。
《『遺文辞典』歴史篇「法華文句記」の項》
(日比宣正)