宗教教育
宗教教育
しゅうきょうきょういく
宗教と教育との関係は、時代と共にいろいろな変遷を経て今日に至っている。
日本の歴史に於ても例外ではない。
奈良時代、法隆寺が「学問寺」といわれたように、仏教はその布教伝道の中において、重要な教育的使命を果してきた。
その力はなお日本人の日常生活の中で、ものの考え方、言語、習慣等々の世界に生き続けているということができるであろう。
江戸時代に入って、儒教の影響は大きかった。
儒教が徳川幕府の御用的な思想として、その時代の指導理念となったことは封建的支配の支柱として無視することはできないと同時に、古神道の復活は国学等を通して明治維新における王政復古の思想的背景となった事も重要な日本思想史の流れであった。
しかし仏教の永い歴史と伝統は、寺院を基盤とする全国教化の影響下において、国民に宗教的感化を与えたことは深いものがあった。
近代的な意味で宗教と教育との関係が問題となったのは、明治維新以後であろう。
殊に第二次世界大戦後、政教分離は憲法あるいは教育基本法等において、信教の自由の原則によって公立学校では宗教教育は禁止されている。
憲法第二〇条では「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。
いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」と規定し同条(3)においては「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教活動もしてはならない」としている。
また教育基本法では、第九条で「宗教に関する寛容の態度及び宗教の社会生活における地位は教育上これを尊重しなければならない。
国及び地市公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教活動をしてはならない」とし、公教育の場における宗教教育ないし宗教活動を厳格に禁止している。
しかし前段の条文は必ずしも教育の根底にある宗教の役割を否定しているものではない。
日本におけるかかる宗教教育の禁止は、宗教の日本的構造に由来するものと考えられる。
即ち西欧においてはカトリックあるいはプロテスタンティズムによる宗教教育が相互にその相違点はあるにしても、ひとしく唯一絶対の神と救世主イエスヘの信仰を同じくするキリスト教であり、しかも国民のほとんど全部がキリスト教徒であるのに反して日本の宗教の現況は神道、仏教、キリスト教等、各々その教理教条を異にし、そこからまた色々な教派宗派が無数に派生していて、特定の宗教教育と公教育の中に持ち込む事は実際には不可能なのである。
僅かに日本の全学校の二%しか占めていない宗教系私学が宗教教育を公然と行えるにすぎないのである。
昭和二三年(一九四八)七月「学校教育と宗教との関係について」という教育委員会の建議文が発表されているが、それによると「宗教心に基づく敬愛な情操の涵養は、平和的文化的な民主国家の建設に欠くことのできない精神的基盤であり、殊に人間性の重要な一面たる宗教的欲求を正しく啓培することは、教育本来の使命にも沿うことにもなるのである」とされている。
この短い文章は日本の宗教教育の今日的性格と方向を示唆しているものと思われる。
すなわち宗教一般に共通して、その教育的要素は何であるかが問題となるのである。
それは宗教一般のもつ社会的・教育的機能を問うているものと考えられる。
このことについては「人類の求める精神的理想を実現する力を与える機能」ということができる。
神あるいは仏という理想像に人間像を帰入していくこと―人間完成への理想と、神の国或は仏国土という平和な国土への念願の実現の中に宗教は帰一するものと思う。
宗教的理想は、現実の人間生活のさまざまな矛盾、苦悩の中から湧き出るものである。
人間は本来罪を背負うているものともいわれているが、人間は矛盾と苦悩に満ちている存在であり、そのことを自覚する精神的存在である。
仏教的にいえば人間は法華経に示す如く「三界は安きことなし、なお火宅の如し、衆苦充満して、甚だ怖畏すべし、常に生老病死の憂患あり」という先天的な宿業の中に生れ死していくのである。
その衆苦の中から生きる喜びを悟り、人生の意義を体得し、生命の躍動の中に充実した人生を生きる力を感得するのである。
このことは宗教の生命的機能ということができるし、このことの中にこそ文化的な社会生活の積極性が生れるのである。
いわゆる人間性の開発を指導助成する機能ということができる。
このことは教育もまた人間形成の過程に於て終局の理想とすべきものである。
徒らに科学的知識の蓄積によってのみ、人間の完成や幸福が期せられるわけではない。
例えば科学的知識の発達が現代、人類絶滅の危機を招きつつあることは周知のことである。
人類の生き残る道はいかにあるべきかが真剣に問われている現代である。
社会と個人に理想的な地球的環境を実現しようとする人間の願望と向上は、教育とともに宗教の求める最高の自由に通ずるものである。
しかしながら宗教は、具体的には宗教一般として存在しない、即ち様々な宗教が宗派として我々の眼前にある。
従って宗教教育といっても、その目的や理想のために千差万別の在り様を示している。
そこで現在日本にいかなる宗教教育が行われているかが明らかにされなければならない。
このことを、幼・小・中・高にわたってたずねることは重要かつ困難な作業であるが、一つの事例として幼児教育の面で取上げておく。
神道系は神社本庁の「全国神社保育連合会」があり「敬神生活の綱領」をもち、次の三ヵ条を立てている。
一、神の恵みと祖先の恩とに感謝し、明(あか)きまことを以て祭礼にいそしむこと。
二、世のため人のために奉仕し、神のみこともちとして世をつくり固めなすこと。
三、大御心をいただきてむつび和らぎ、国の隆昌と世界の共存共栄とを祈ること。
この三つの柱を実際の保育に展開することにカリキュラムの目標がある。
仏教系は「日本仏教保育協会」が組織され、全宗派通仏教的に統一して「仏教保育綱領」がある。
それは三宝を基礎にし、次の三つの目標をかかげている。
仏―慈心不殺―生命尊重の保育を行おう。
法―仏道成就―正しきをみて絶えず進む保育を行おう。
僧―正業精進―よき社会人をつくる保育を行おう。
ここに言う「保育」を教育と読みなおしてよい。
キリスト教系では「キリスト教保育連盟」があり、プロテスタント系とカトリック系とに分れ、プロテスタント系は月刊雑誌「キリスト教保育」や「幼児のキリスト教教育指針」等が出版され広く活用されている。
仏教殊に日蓮宗に於ては昭和四六年(一九七一)に『日蓮宗保育必携』が「日蓮宗保育連盟」によって出版されているが、法華経に見られるところの永遠の生命観、人間尊重、人間礼拝の善意の勝利をバックボーンとして六波羅蜜に準じて次の六項の目標を示している。
(一)布施―友だちと仲よく遊べる子になりましょう。
(二)持戒―きまりをよくまもり、みんなといっしょに遊びましょう。
(三)忍辱―がまんづよく、しまいまでやりとげる子になりましょう。
(四)精進―おやすみしない丈夫な体をもち、できることは自分でしましよう。
(五)禅定―あわてないで、いつも心のやさしい子になりましょう。
(六)智慧―ものごとを、よく考えて、すすんでよいことをする子になりましょう。
思うに、宗教教育は学校教育の世界に限られたものではなく、人間教化全域にわたるものである。
即ち宗教教育の社会化としての教化活動を軽視してはならない。
日蓮宗には社会教化事業協会があり、社会教導師の制度があり、社会教育、社会事業、教育事業等の広範囲にわたり、全国の寺院を通して、それぞれの分野が開拓されている。
日本には宗教の展覧会の如く、多種多様の宗教があることは先述したが要は、人間個人個人に選択の自由があり、信ぜぬ自由もある。
近代の青少年が殆ど無宗教的になりつつあることは、公教育の場から宗教が遮断されている事に大きな原因があると思われる。
教職員も宗教的意識は低いか皆無である。
むしろ青年の一般的傾向としては、信仰そのものが非近代的、時代錯誤的なことのように受けとられているがこれは宗教に対する全くの無知乃至偏見に起因している。
人間には本来、宗教的欲求が内在している。
その欲求を引き出す教育を情操に求めているのが、最近の教育に於ける傾向である。
情操は道徳、芸術、音楽等の基盤をなすものであり、人間の高く深い成長に資する心情の世界である。
かくて宗教教育は人間教育の根元にせまるものなのである。
《増谷文雄編『現代青少年の宗教意識』、小原国芳『宗教教育論』、『日蓮宗保育必携』、世界の宗教教科書プロジェクト編『DVD世界の宗教教科書』大正大学、中西直樹『日本近代の仏教女子教育』法蔵館》
(三田村龍全)
図版