人間像
人間像
にんげんぞう
人間像とは人間学とは違う、ソクラテスは「人間とはつねにかれ自身を探求しているもの」と言っているが、人間自らが人間とは何ぞやと探求するのは人間学の課題であろう。
従ってあらゆる哲学は、人間学を含んでいる。
人間像を考えるに当っては「自由に行為する存在者としての人間は、自己をいかなるものに作るか、作りうるか、作るべきかを」(岩波『哲学事典』)希求するものであって、人間存在の内容ないし傾向を動物的生、人間的生、霊的生として分ける考え方もある。
しかし人間そのものの実存の姿をいかように分析しても人間像は生まれてこないであろう。
仏陀が一〇〇とすれば、せめてその五〇%に、あるいは七〇%に人間として近づこうとする成仏道のプロセスの中に、われわれはどのような人間として生き成長するか―そのねがい(希求)の中に「人間像」は描かれ、それらを自己開発と精進の目標として志求する人間的生の在り方の中にこそ人間像を求むべきであろう。
法華経にも色々な人間像が語られている。
例えば「冥(くら)きより冥きに入り 永く仏の名を聞かず」という迷盲の人間に対比して「今仏最上安穏無漏の法を得たまえり」と化城諭品に見られるが、これもまた動物的生成は人間的生から「仏」への発展的志求の在るべき人間の内面的な向上性を意味するものである。
「没在於苦海(もつざいおくかい)」の救い難いものとして、人間を放り出してはいない。
ここに仏教を通して、われわれの求める人間像への霊性的人間の道がひらかれているのである。
即ち他の言葉で言えば、人間は自らをいかに創造するかという精神的生産者としての人間の姿を探求し、自らその道を歩むものでなくてはならない。
ロマン・ローランは「人間の野獣性に、虚偽の、病的な理想主義の衣をきせるよりも、率直に野獣であるほうが人間にとっては危険が少ないだろう」と述べているが、人間はその野獣と共に、何か新たなもの、より高次なものを求めているのである。
ゲーテは「人間は常に迷っている。
迷っているあいだは、常に何かを求めているのである」と述べているが、われわれは仏教の立場より、何を求むべきであろうか。
それは解脱への道を歩み、仏となることである。
法華経自我偈ではその結びに「成仏」といわず「成就仏身」と主体的に表現している。
人間は勿論、動物は欲望の固りである。
ただ人間は動物とは違って、意識的にその欲望から脱却して、あらゆる条件の中で、よりよく生きようとする。
よりよき人間としての人間完成を心に描くことができるのである。
二葉亭四迷は「凡人は聖人の縮図なり」と興味ある表現をしている。
このような立場から「仏教の人間像」を「どのような人間になったらよいか」という立場から自己創造の実践的目標を明らかにしたい。
昭和三九年(一九六四)全国青少年教化協議会から「仏教の人間像」が発表された。
それによると、
(1)底ぬけに人を信ずる人間となろう
(2)よろこんで与える人間となろう
(3)いのちを大切にする人間となろう
(4)考え深い人間となろう
(5)使命に生きる人間となろう
(6)規律あるしあわせをよろこぶ人間となろう。
と六つの目標をあげている。
この日常的でしかも人間高次化の目標の実践は「つねに自らこの念をなす」という仏のねがいに答えるものである。
日蓮聖人は「あきらかなること日月にすぎんや、浄きこと蓮華にまさるべきや、法華経は日月と蓮華となり。
故に妙法蓮華経と名づく、日蓮また日月と蓮華の如くなり」と述べている。
明らかなること、浄きことの人間形成の中に、人間のあるべき像(すがた)を求めたのである。
このことは「期待される人間像」という上からのものではなく、迷いつつなお求めて至るべきものである。
人間一般を知ることではなく「われ」を作る求道である。
河上肇の「人間にとって大切なものは、およそ三つある。
その一は肉体であり、その二は知性であり、その三は霊魂である」という言葉は「人間像」探求の原点であろう。
《『仏教の人間像』、日蓮宗保育連盟『日蓮宗保育必携』、文部省『期待される人間像』》