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人間像

にんげんぞう #485

人間像

にんげんぞう

人間像とは人学とは違う、ソクラテスは「人とはつねにかれ自身を探求しているもの」と言っているが、人自らが人とは何ぞやと探求するのは人学の課題であろう。
従ってあらゆる哲学は、人学を含んでいる。
人間像を考えるに当っては「自由に行為する存在者としての人間は、自己をいかなるものに作るか、作りうるか、作るべきかを」(岩波『哲学典』)希求するものであって、人存在の内容ないし傾向を動物的生、人的生、霊的生として分ける考え方もある。
しかし人そのものの実存の姿をいかように分析しても人間像は生まれてこないであろう。
仏陀が一〇〇とすれば、せめてその五〇%に、あるいは七〇%に人間として近づこうとする成仏道のプロセスの中に、われわれはどのような人間として生き成長するか―そのねがい(希求)の中に「人間像」は描かれ、それらを自己開発と精進の目標として志求する人間的生の在り方の中にこそ人間像を求むべきであろう。
法華経にも色々な人間像が語られている。
例えば「冥(くら)きより冥きに入り 永くの名を聞かず」という迷盲の人間に対比して「今最上安穏無漏の法を得たまえり」と化城諭品に見られるが、これもまた動物的生成は人間的生から「」への発展的志求の在るべき人間の内面的な向上を意味するものである。
「没在於苦海(もつざいおくかい)」の救い難いものとして、人を放り出してはいない。
ここに教を通して、われわれの求める人間像への霊的人の道がひらかれているのである。
ち他の言葉で言えば、人は自らをいかに創造するかという精神的生産者としての人の姿を探求し、自らその道を歩むものでなくてはならない。
ロマン・ローランは「人の野獣に、虚偽の、病的な想主義の衣をきせるよりも、率直に野獣であるほうが人にとっては危険が少ないだろう」と述べているが、人はその野獣と共に、何か新たなもの、より高次なものを求めているのである。
ゲーテは「人は常に迷っている。
迷っているあいだは、常に何かを求めているのである」と述べているが、われわれはの立場より、何を求むべきであろうか。
それは解脱への道を歩み、となることである。
法華経自我偈ではその結びに「成仏」といわず「成就身」と主体的に表現している。
は勿論、動物は欲望の固りである。
ただ人は動物とは違って、意識的にその欲望から脱却して、あらゆる条件の中で、よりよく生きようとする。
よりよき人としての人完成を心に描くことができるのである。
二葉亭四迷は「凡人は聖人の縮図なり」と興味ある表現をしている。
このような立場から「教の人間像」を「どのような人になったらよいか」という立場から自己創造の実践的目標を明らかにしたい。
昭和三九年(一九六四)全青少年教化協議会から「教の人間像」が発表された。
それによると、
(1)底ぬけに人を信ずる人となろう
(2)よろこんで与える人となろう
(3)いのちを大切にする人となろう
(4)考え深い人となろう
(5)使命に生きる人となろう
(6)規律あるしあわせをよろこぶ人となろう。
と六つの目標をあげている。
この日常的でしかも人高次化の目標の実践は「つねに自らこの念をなす」というのねがいに答えるものである。
日蓮聖人は「あきらかなること日月にすぎんや、浄きこと蓮華にまさるべきや、法華経は日月と蓮華となり。
故に妙法蓮華経と名づく、日蓮また日月と蓮華の如くなり」と述べている。
明らかなること、浄きことの人形成の中に、人のあるべき像(すがた)を求めたのである。
このことは「期待される人間像」という上からのものではなく、迷いつつなお求めて至るべきものである。
一般を知ることではなく「われ」を作る求道である。
河上肇の「人にとって大切なものは、およそ三つある。
その一は肉体であり、その二は知であり、その三は霊魂である」という言葉は「人間像」探求の原点であろう。
《『教の人間像』、日蓮宗保育連盟『日蓮宗保育必携』、文部省『期待される人間像』》

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