恵檀両流
恵檀両流
えだんりょうりゅう
恵(慧)心流と檀那流をいう。
日本中古(中世)天台宗の二大学派。
慈恵僧正良源の弟子に源信僧都・覚運和尚の二大俊英がおり、源信は晩年、比叡山横川恵心院に居住して著述と弟子の育成に努め、また覚運は東塔檀那院に住し多くの弟子を輩出す。
のちこの二門が栄え、源信が恵心院に住したところからこの学派を恵心流と呼ぶのに対し、覚運を始祖とする流派をまた院称をとって檀那流と称す。
両流の起源については、伝忠尋撰『漢光類聚』(鎌倉期の成立)四に「山家の大師の二宗血脈に云く、予、異朝に渡って密に二旨を伝ふ。
一には宗教分、二には宗旨分なり。
宗教の一種は法華の本迹二門を伝へ、宗旨の一段は正しく仏意・根本・内証に依る。
宗教とは四教・五時・本迹等なり。
宗旨とは天真独朗・三千・三観なり。
(略)山家、この一紙の血脈を、大蔵経の前において慈覚大師に授く。
横川の大師、本朝五代の流れを受けて、この血脈を源信に授く。
三千の門徒の中にこの血脈を得たる人は、源信和尚のみなり。
檀那院の相承には、ただ宗教の分を伝ふるが故に天台一宗の法門を依経立宗と意得たり。
恵心院の相承には、宗教は経に依って宗を立て、宗旨は心に依って宗を立つるなり」とあり、定珍の『先徳明匠記』には「(慈恵)大師、教観二門を以て二人に付属す。
楞厳院源信には観門、檀那院覚運には教門。
是両流の根元也。
光定大師云く、一家の法門行満より伝え、一心三観道邃に受く。
恵心道邃相承、檀那行満相承也」と伝えている。
日蓮聖人遺文『四条金吾殿御返事』(別称、煩悩即菩提。
朝師本)は「第十八代の座主慈慧大師なり、御弟子あまたあり。
其中に檀那・慧心・僧賀・禅瑜等と申て四人まします。
法門又二に分れたり。
檀那僧正は教を伝ふ、慧心僧都は観をまなぶ。
されば教と観とは日月のごとし。
教はあさく、観はふかし、されば檀那の法門はひろくしてあさし、慧心の法門はせばくしてふかし」(定六三五頁)と批評している。
恵心流の道邃相承・本覚門立脚・観心正意、檀那流の行満相承・始覚門立脚・教相正意とする説は一様に恵心流がいう伝説であって、従来の研究によれば、両流共に三種法華論の重用、観心主義・本覚本門思想の基調に立ち、一心三観と凡夫の無作三身説が教義の根本大系をなし、それを口伝をもって相承伝授した、いわゆる口伝法門である。
従って両流の発生と流派としての形態をとるのは、平安末期から鎌倉初期に至る院政時代であるといわれる。
『立正観抄送状』(進師本)に「慧心流の義に云く、止観の一部は本迹二門に亘る。
(略)檀那流に止観は迹門に限る」(定八七〇頁)と伝えている。
鎌倉末期頃までには、恵心流では四重興廃・止観勝法華説・三重七箇大事、檀那流には五箇血脈・玄旨血脈などの口伝法門が大成された。
檀那流にはのちに玄旨帰命壇の現出をみる。
またこの頃には両流とも分裂を来たし、恵心流に椙生流(皇覚)・行泉房流(静明)・土御門門跡流(政海)・宝地房流(証真)の四派、檀那流には恵光房流(澄豪)・竹林房流(長耀)・毘沙門堂流(智海)・猪熊流(聖融)の四流が各々派生し、恵心流は椙生流、檀那流では恵光房流が各々嫡流とされる。
殊に恵心流は早くから関東に伝播され、河田谷了性房信尊、その弟子円頓房尊海らによって武蔵国仙波(今の川越)を中心に天台学が興隆された。
これを比叡山の都(みやこ)恵心に対して田舎恵心(関東天台)という。
室町時代の日蓮門下はこの仙波に遊んで大いに天台学を学んだ。
今日、多くの恵心流各種の口伝法門書が身延文庫に所蔵されているのは、行学院日朝を始めとする、当時の久遠寺歴代が仙波に修学した結果である。
恵檀両流と日蓮聖人との関わりについて、「日蓮宗は慧心流教相の本門思想を中心として立つ」(島地大等『天台教学史』)か否かは追究されるべき問題であり、浅井要麟に「祖書に現はれたる慧檀両流」(『日蓮聖人教学の研究』所収)という示唆に富んだ研究がある。
この問題は遺文真偽の問題とからんで大いに検討する余地がある。
《島地大等『天台教学史』、硲慈弘『日本仏教の開展とその基調』、浅井要麟『日蓮聖人教学の研究』、田村芳朗『鎌倉新仏教思想の研究』、執行海秀『日蓮宗教学史』、望月歓厚『日蓮教学の研究』、『遺文辞典』歴史篇「慧心流」「檀那流」の項、『岩波仏教辞典』「恵檀二流」の項、『国史大辞典』二巻「恵心流」の項》