妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

日向門流

にこうもんりゅう #2509

日向門流

にこうもんりゅう

日蓮聖人の弟子で六老僧の一人である佐渡阿闍梨日向が身延山の第二世となり住職となったが、この日向の流れをくむ一派を日向門流という。
身延を中心としたので身延門流ともいわれており、また日向が藻原を兼任したことから別に藻原門徒ともいわれている。即ち日向は聖人の滅後身延山に住し、永仁五年(一二九七)九月二五日南部実長入道日円が没したあと、長男六郎次郎実継・弟原長義ら一族の外護を得て、身延山の基礎を固めていったが、正和二年(一三一三)に弟子の日進に身延山をゆずり、上総の藻原に隠棲した。
また弟子の丹波公日秀に藻原の妙光寺(現藻原寺)をゆだね、その地方の化をたくし、翌三年九月三日に入寂した。
に六二歳であった。
日向のあとを受け継いで身延の第三世となった日進は、文永八年(一二七一)の誕生で安部氏の出といわれている。
初めは日心といい、後に日真と改め更に日進と称した。三位公・大進阿闍梨といい、専ら身延の経営に努め、中山の日祐と親交を深めていった。
ち日祐は日進が身延へ入山した翌年に中山住職となり、この年からほとんど毎年のように身延へ登り、日進を師のように敬い、交りは年々深まっていった。
爾来身延中山の関係は第七世の日叡に至るまで、約六〇年にわたり厚い交誼があったようである。
日進は中山と親しくすることによって、下総・相模方面の豪族から外護を受け、御影堂の修改築を始めとして、山容を整えていったのである。
特に上総藻原の一帯は日向が隠棲した所でもあり、日秀の化と相まって、強い線の拡充をみるに及んだ。
豪族を始め一般庶民に至るまで、篤信の徒が増え、後世「藻原門徒」といわれるような一方の勢力を扶植していったのである。
日向の門弟及びその流れをくむ一派で、藻原方面の人々を藻原門徒と呼ぶのに対し、身延を中心とした流れを身延門流と称している。
さて身延門流の方は日向から日進に引き継がれ、元徳二年(一三三〇)日進は大法阿闍梨日善に身延の後職を譲った。
は日進とは兄弟であるともいわれているが、建武四年(一三三七)に南部出身の日台に譲って隠退した。
日台は南部長氏の子で春乙丸といい、当一七歳であったので、少納言阿闍梨に後見を委ねたといわれている。
その頃の長氏は身延山の開基檀那として、地位も勢力も共に比類なき存在であったと伝えられる。
このため身延山の六世日院は日台の弟であり、七世日叡もまた波木井の出身者と見なされ、南部一門から猊座に登る者が続いた。
なお日叡は比企谷と池上の両山を兼務し、宇都宮の妙勝寺をも兼ね、「四山一主」の制を施いた。
ところが中山ではこれに反対し、更に明徳元年(一三九〇)に中山で七条の袈裟を着用したのを日叡が謗法衣であると言ったこと等から、遂に身延と中山の両門流は不和となった。
日進の代に親しさを増した両門流は、ここに対立することとなった。
また日叡は当富士門流であった甲州小室の妙法寺日尊と論談して勝劣義を捨てさせ、身延門流に帰せしめたともいわれている(「当家門流継図之」)。
日叡は応永七年(一四〇〇)遷化し身延波木井の生れである日億によって継承された。
弟に日行と日学があり、日行は池上・比企谷両山の六世となり、日学は身延の九世となったので、「叡門の三猊」と称せられた。
また日学の門下には、身延の一〇世となった日延や、三島と鎌倉へ本覚寺を創建した日出、及び京都に学養寺を建て身延門流の関西進出に最初の力となった日讃、室町幕府をしばしば諫暁した日伝らが出た。
更に日出の弟子に身延山中興と称せられている一一世日朝が出た。
日朝は久遠寺の移転拡充の大業をなしとげた上に延山教学をも大成し、門下からは一二世の日意、一三世の日伝が出たのを始め、一九世日道に至るまで日朝の弟子や孫弟子らが相次いで出て身延門流の継承者となった。
京都に妙伝寺を創した日意、江戸に瑞輪寺を建てた日新らの活躍も目覚しく、身延門流は日蓮教団を代表する大きな門流となっていったのである。
慶長六年(一六〇一)日道の没後は、身延門流の所属ではない京都本満寺日重の門下によって継承され、やがて受不施・不受不施の論争対立で勝利をえた身延門流団内に確乎たる地位を占めていった。
かくして日向に発する身延門流は幾多の人材を輩出し、単に門流のみならず団発展の上にも大きな役割を果していったのである。
一四世日鏡は弘治二年(一五五六)に西谷檀林の基を創し学を盛んにした。
このあと身延は三一世日脱以後、飯高檀林出世寺となっていった。
三二世日省、三三世日亨の時代には支院一三三ヵ坊もの盛況を示し身延門流の要としての威容を誇った。
《『日蓮辞典』「身延門流」「藻原門流(もばらもんりゅう)」の項、『日蓮教団全史』上、『身延山史、小松邦彰・花野充道『日蓮団の成立と展開』(春秋社『シリーズ日蓮』三)

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