学養寺
学養寺
がくようじ
(現在燈明寺)所在地は京都四条綾小路というが、四条通りも綾小路通りも東西に通る通名であるから正確な場所はわからない。
応永末年(一四二七-二八)身延山久遠寺九世成就日学門人大乗房日讃が創立した。
師の日学を開山に仰ぎ自ら二世となった。
それまで他門流に遅れていた身延門流の関西弘教活動の端緒を開いた。
日学上洛して学養寺に法陣を張り天奏した時、日讃のつくした忠節を褒賞して与えた書状に「此の相坂関より西之身延門流、悉く学養寺の末寺たるべき者也 正長元戊申九月吉日 日学在判 学養寺大乗坊日讃給」とある通り、関西の身延門流諸寺院は悉く学養寺の末寺であったことは明らかである。
比企池上両山七世塵劫日寿は学養寺に三年病を養って、遂に遷化して遺骸を境内に葬られた。
後にその塚上に常寿寺を造った。
玉泉日伝も二八歳の時上洛滞在すること一〇余年、勉学と弘通に励み、室町幕府に諫暁して身延門流のために気を吐いた。
祖山一〇世観行日延も屈請を受けて、百余日滞在宗義を書いて朝廷に諫言した。
両山八世日調、一夏百日雨華場を開き、平賀日端・日晴ら相逐うて上洛、ここにて繞仏唱題行を修した。
天文五年(一五三六)法乱に焼亡するまで一〇八年間、京洛二十一本山の一つとして栄えた。
永禄元年(一五五八)日像建立の京洛「七口之題目石」の一つが北野で発掘された。
これを祀るために立本寺一〇世善住日経は右近之馬場の傍に一寺を建てて学養寺と称した(天文法乱の後二一ヵ寺の再建は許されたが、その他の新寺建立は禁じられていたので、未再建の六ヵ寺のうちの学養寺の名によって建てたものと思われる)。
天正一六年(一五八八)後陽成天皇故あってこの寺にて一日百灯供養を修し、勅命にて燈明寺と改めた。
以来学養寺の名は消えてしまった。
しかしその間において、他方妙伝寺山内に日養は、その頃塔中寺院の建立ならば容易であったので学養坊を建立して開山となった。
これものち妙釈院に摂収された。
《黒川道祐『雍州府志』》