顕本論
顕本論
けんぽんろん
本門寿量品には、釈尊の久遠本地が開顕されているが、天台大師はこの寿量本仏を三身円満具足の仏と規定し、三身の顕本があると見なした。
その三身中、正意を求めれば「正在報身」と述べて、報身正意の三身顕本を定めたのである。
日蓮聖人は天台・妙楽の思想系譜に自らを位置づけられているが、この顕本に関する叙述は多くない。
『開目抄』、『観心本尊抄』の説示から類推すると、聖人は天台大師の仏身観を継承され、理法身為正の顕本に簡んで、三身顕本中報身為正と見なされていたようである。
何故なら、法身の無始無終は諸経の常談であり、法身は非因非果の真如身であることから、釈尊の色心因果具足という表現は不可能である。
『開目抄』の「本因本果の法門」(定五五二頁)、『観心本尊抄』の「釈尊の因行果徳」(定七一一頁)、『一代五時図』の「久遠実成実修実証の仏」(定二三四二頁)等の記述は、明らかに釈尊の化道の実事があり、報身の仏格を看取することができるのである。
聖人滅後の教学において、この寿量顕本の本仏を法身・報身・応身の三身中、どの仏格と定めるか多くの論議がなされてきた。
それは単なる三身をどのように規定するかということにとどまらず、本宗の本尊がこの本門寿量品に立脚していることから、本尊論と不離の関係にあることになる。
このことを望月歓厚は、「顕本論は仏格を規定すべく論ぜられる。
而して仏は救主であるから、本尊論と顕本論とは不離直接の関係を有する。
即ち顕本論上の仏格はそのまま本尊の本主とならねばならぬ」(『日蓮教学の研究』三九七頁)と述べているのである。
それ故に顕本論は本尊論を究明する重要な一面であることが理解されるのである。
以下、日蓮宗教学史上の代表的な顕本論を二、三紹介しておきたい。
まず室町時代一致派の代表的教学者である行学院日朝(一四二二-一五〇〇)は、発迹顕本の仏を本覚三身如来と規定し、塵点劫の事顕本を能顕として、理顕本の法身を正意とする立場である。
そして、この理顕本は十界の当体を常住と見なし、理即凡夫を絶体肯定するものである。
更には教相たる塵点劫の成仏を仮説、迹仏と解釈し、十界依正の森羅万象の顕本を正意として、あるがままの事象が真如の顕現であって、森羅三千の常住を強調するのである。
つまり日朝の顕本義は中古天台思想の影響を受けたものであって、凡夫本主論が見られ、超越的な仏陀観は見出せない。
それは日朝の立脚した本迹論が本迹未分の根本法華を主軸とする一致であって、極めて中古天台の観心思想の色彩が強いことによる。
同じ一致派の法脈である近世の宗学組織者、一妙院日導(一七二四-八九)は、『祖書綱要』の中で顕本を論ずるが、寿量品の一品を、文上・文底に分別し、仏の久遠開顕である事成顕本は文上であり、この事成所顕の所証の理法たる十界が無始本覚仏で文底と見なす。
そして 文上と文底を対判し、実修実証の久成の仏を文上迹仏、理即不覚の凡夫をもって無始無終の本仏と解釈する。
そして、この立場から本尊を論ずるとき、法界がことごとくこれ本門の教主釈尊であり、理即不覚の凡夫が本仏であるという凡夫本主を主張するのである。
日朝・日導はともに理顕本を正意とし、法身顕本をその根底に置くのであるが、本来の顕本論からは逸脱したものであることは否めない。
次に室町時代勝劣派の代表的教学者、慶林坊日隆(一三八五-一四六四)の顕本義について見ることにしよう。
日隆は当時の一致派及び天台教学が観心主義に傾斜していることに批判を加えている。
そして教相主義の立場から塵点仮説の理顕本義を排し、五百塵点劫の実説を強調して実修実証の報身顕本を選取している。
それは非因非果の法身、無常の応身に簡んで修因感果の報身仏を正意として定めたのであり、その報身仏が本因下種の本尊となるべきものと見なしたのである。
しかし、日隆の顕本義は、塵点実説を強調するあまり、五百塵点の周期的な時間そのものに制約された繰返しの顕本となり、釈尊の三世に亘る化道という永遠の問題が未解決となっている。
しかも事成報身仏に即する無始の事仏を確立しなかったがために、本尊論において仏本尊を強調しながらも、ついに法本尊に帰することになっている。
近世の日什門流の代表的教学者である合掌院日受(一六九二-一七七六)は、『如実事観録』に「寿量の顕本は正しく応身に在り」と述べて、従来の報中論三の三身説に対し、応中論三の三身顕本を正意と見なした。
つまり応身為体、三身為徳を説くのである。
この応身為体の思想は、檀那流の相伝とされているが『録内啓蒙』所引の『雑々抄』には、事相の迹仏をそのまま久遠の本地身と開し、事相の迹仏と思う情を払えばそこに本地身が顕現されるという。
日受はこの説を許容し、自説の応身為体論を援証しようとしているが、本仏の無始無終を説明するに当っては、釈尊が成道せられた時は先払と同体の本覚となり、その先仏もまたかくの如くであって、古仏が相続して本と絶えることがないと、相続事常住論を主張している。
そして近因近果に即して久遠塵点劫の釈尊を説き顕すのが本因本果所顕の三身即一の応身であって、この久遠始成釈尊の当体をもって無始已来の古仏と称するのである。
そして、この本仏を本門の本尊と定め、本仏中心の信心為本と強調しているのである。