日朗門流
日朗門流
にちろうもんりゅう
日朗(一二四五-一三二〇)を派祖として構成された門流である。
日朗門流との呼称は広義的な意味で、日朗の法系につながる京都妙顕寺、本国寺いわゆる四条、六条門流、更に越後本成寺(のちの陣門流)、平賀本土寺などを含む教線の伸張を総称していう場合と、狭義的に日朗の拠点が比企谷妙本寺、池上本門寺にあり、両寺は両山一寺制をとり朗門の正嫡としていることから、両寺を中心とする組織を呼称する場合がある。
江戸時代以降では後者の意味で使用されることが多い。
また両寺の地名をとって比企谷門流、池上門流との呼称もあり、教団の内的必要に応じて呼称も使い分けられているといえよう。
日朗は日蓮聖人なきあと鎌倉比企谷の妙本寺にあって武州池上本門寺をかねて弟子を育成した。
また分離し対立関係にある日興との和融に尽力したことなどが知られるが、文保二年(一三一八)に妙本寺と本門寺の両寺を日輪に譲り、池上の南窪に隠棲し聖人入滅の地を守り、翌々年に没している。
日朗には後世、朗門の九鳳あるいは九老僧(日像、日輪、日善、日典=のちに日伝、日範、日印、日澄、日行、朗慶)と呼ばれる弟子がいて教線伸張の中心となる。
日像は日蓮聖人の最後の孫弟子に当り、聖人の遺命により京都開教を行った人物で、妙顕寺を開いている。
のちの四条門流の本拠地である。
日印は日朗没後まもなく他の弟子とは対立関係に入り、本成寺を拠点として分立していた。
弟子に日静がいて京都に本国寺(いわゆる六条門流である)を興し、その後は日伝に、本成寺を日陣に譲ったものの両者は後に本迹勝劣義をめぐって対立し教団を二分している。
六条門流と日陣門流の成立である。
日善は日朗没後まもなく碑文谷法華寺日源の付属をうけ二世となり、のち上洛し日像と協力しながら朗門の伸張に尽しながら二十一本山の一つに数えられる宝国寺を開いている。
日行は日印と行動を共にして、上洛してやはり二十一本山の一つに数えられる大妙寺を開いている。
日範は三浦半島方面に弘通し三崎大乗寺を建て、のちに上洛し丹波福知山に常照寺を開いた。
日澄は房州天津に日澄寺を開き、鎌倉に大巧寺、尾張熱田(愛知県名古屋市)に本遠寺を開いた。
朗慶は武州中延に法蓮寺を開き、同二本榎朗惺寺を開いた。
日典(のちに日伝)は下総平賀に本土寺を開き、日朗没後も日輪を援け自己の拠点である平賀から鎌倉の日輪のもとに行き日朗門下の弟子育成に当ったので、半年僧、半年阿闍梨と呼ばれている。
日輪は日朗の正嫡として両寺を継ぐとまもなく、下野宇都宮に妙正寺、上総木更津に光明寺、相模大磯に妙輪寺を開き、日輪の弟子日契は上総伊北に大野光福寺を開き、池上、比企谷門流の強力な信仰基盤を確立している。
このように日朗門流は九老僧を中心に関東および京都に教線を伸張させるが、日印の分立、更に京都進出の諸師はいずれも独自性を発揮して晩年には実質的に分立している。
両寺を継いだ日輪に協力し朗門としての一体性を維持するのは、平賀本土寺の日典、および朗慶の法系だけであった。平賀本土寺は山号を長谷山と呼称し、池上本門寺、比企谷妙本寺の両寺もいずれも山号に「長」がつくことから日朗門流の「三長三本山」との呼称をもっている。朗慶の開いた寺はのちに池上末に組込まれている。
このようにみてくれは、日朗門流とは日朗没後まもなく弟子たちによって関東系と京都系とに区別され、京都系は独自の教団としての発達を示していったことが知れる。
かくして日朗門流とはむしろ、池上、比企谷、平賀の三山を中心にした体制といえるが、戦国期から江戸初期にかけて、平賀本土寺が両山とは独自の展開をみせ、身延派や中山派と接触するようになる。
また碑文谷も池上と激しい対立関係に入り教線を競いあったことが知られる。
比企谷、池上を中心とする日朗門流は、日輪の後は日山が継ぎ、日山は上総方面に弘教し、上総伊北の狩野氏を教化し強固な信仰圏を築き、永徳元年(一三八一)四四歳をもって入寂したが、その後を継ぐ弟子がいないために老僧順番をもって両山の維持を計った。
だがまもなく外護者の狩野氏の後押しにより身延山久遠寺の日叡が比企谷に晋山し両寺を支配することとなり、身延門流に統合された。
これに対して日朗門流内では不満が強く、遂に応永六年(一三九九)に日叡隠退し身延は日億が継ぎ、翌年に延命院日行が両寺を継ぎ、身延貫首支配を離れることができたものの、両寺を中心にした日朗門流の独自的展開はなく、実質的には身延派支配に属していた。
しかし、応永二九年閏一〇月三日に比企谷は全山兵火に遭って焼失するに至り、両寺の力は大きく後退したと思われる。
だが文安四年(一四四七)平賀に日意が出て朗門の気勢をあげ、また両寺も享徳元年(一四五二)日調の晋山以降、上総伊北の信仰圏の再編成と強化に努め両寺の復興に努め、身延派支配を完全に離れ、日朗正嫡としての比企谷門流、池上門流の独自の展開の基を築いている。
その後、日純、日現、日惺の活躍によって、教線は関東はもとより、北陸、佐渡方面にまで伸張させている。
その間に天文中ごろから天正の中ごろにかけて(一五四三-八五)浄土宗や天台宗との対立をなしている。
とくに天正一三年(一五八五)の上総伊北での天台宗との対立は、戦国大名の後北条氏と里見氏との対立の枠内で武力を伴う争いであったことが知られる。
地方における法華一揆として捉えることが可能であろう。
ともかく、両寺の教線の伸張の著しかったことを明示するものに外ならない。
更に、徳川政権の確立と全国政権への台頭によって、中央における教団としての立場を得るに至り、江戸の発展は池上本門寺を著しく伸張させることとなる。
これまでの両寺の発展はどちらかといえば比企谷に重点がおかれ、比企谷門流の展開といってもさしつかえないといえるが、江戸時代以降は池上門流の展開といえる。
しかし、寛永八年(一六三一)の本門寺日樹と身延山日乾・日遠との不受不施論争により、本門寺は再び身延支配となるものの、これまで築き上げた比企谷、池上門流の勢力は強固なもので、身延支配をはねのけ、身延支配も一時的なもので終っている。
この論争以降、比企谷、池上門流は拠点を池上に絞り、中央に位する利点を生かし池上派として信仰圏を強固なものにしてより一層繁栄している。
かくて、日蓮宗教団の内、主流を占める身延派と並び勢いを得て、池上派として独自の教団を形成し伸展を遂げている。
また本門寺は庶民の信仰も厚く、祖師信仰の頂点に当るお会式行事はとくに有名である。いわゆる祖師信仰を中核にすえた妙見信仰や稲荷信仰などの庶民信仰のメッカとしても知られるようになる。
明治維新以降は身延派と合同し、身延山を総本山とし、池上は中山法華経寺、京都の妙顕寺、本圀寺と並び四大本山として日蓮宗教団の中核本寺として今日に至っている。
《『日蓮辞典』「日朗門流」の項、『日蓮教団全史』上、辻善之助『日本仏教史』近世篇一、高木豊「近世初頭における日蓮教団の動向」『史潮』八〇号、『身延山史』、宮崎英修『禁制不受不施派の研究』、同『不受不施派の源流と展開』、石川存静『池上本門寺史管見』、富永潮樹『池上長栄山本門寺誌』、『大田区の文化財』八集・一一集、坂本勝成「日蓮宗における妙見信仰」『大田区史誌』四号、同「日蓮宗の稲荷信仰」『史誌』六号、小松邦彰・花野充道『日蓮教団の成立と展開』(春秋社『シリーズ日蓮』三)》
(坂本勝成)