狩野氏
狩野氏
かのうし
太田亮の『姓氏家系大辞典』は狩野を姓とする人々について一八種の区別を立てている。
そのうち三番目に相模の狩野氏として平賀本土寺過去帳によって狩野叡昌を記し、五番目にやはり本土寺過去帳の下総の数人の狩野氏を説き、一五番目に絵師の狩野氏を述べている。
それらのうちでは相模と下総の狩野氏が直接宗門に関係する。
『本化別頭仏祖統紀』は狩野修理亮某(法号・叡昌)と狩野元信の項を立てている。
叡昌については
叡昌┐ (入道して郎舜)
├伯耆守某 (興栄両山第八代)
│ ├──────────大運院日調
│ 祐幸
└理哲尼 (興栄両山第七代)
├──────────塵劫院日寿
長尾小五郎
のような関係と、理哲尼夫妻が京都本法寺に財を寄せ、ために本法寺は理哲尼の父の名叡昌を山号としたことなどを記している。
狩野氏は池上本門寺、比企谷妙本寺両寺の住持日山が教化し、日山はその外護をえて教線を伸長したという(『日蓮教団全史』)。
また狩野叡持は身延山七世日叡に心服して有力な檀越となり、日叡はその取持によって日山の遷化の後、身延貫首のまま妙本寺に晋んで両寺を領し、三寺一首の制を作ることができたと考えられる(前掲書)。
また「当門徒継図次第」(『宗全』第一八巻)にも「(日叡が)比企谷ノ住持ト成リ玉フ事ハ叡持ノ御ユカリ也ケリト云」とある。
更に理哲尼の子日寿が四歳にして両山七世の貫首となったこと(児(ちご)貫首と称された)や、朗舜の子日調がその後を継いで八世となったことは、狩野氏の本宗に対する強い発言力を推察させる。
狩野氏は上総伊北荘(現在の大多喜町及びいすみ市の一部に勝浦市北部を含んだ地域)の人とされるから、前記『姓氏家系大辞典』の下総は、墓所のある本土寺が下総であるためにそれにひかれて誤ったものであろう。
また相模(鎌倉)の狩野氏という叡昌は、同じ本土寺に葬られているから(『本土寺過去帳』に「狩野叡昌、カマクラ、嘉吉三癸亥八月」とある)、その出自はやはり上総の狩野氏と思われる。
『別頭統紀』の狩野元信の項は、絵師の狩野元信が上述の狩野氏と同族という前提で記されている。
元信は朗舜の孫であり、友清入道行蓮の子であるとする。
しかしこの絵師の狩野氏が法華信者であったことは確かであるが、果して本宗に関連のある上総の狩野氏の一族かどいうかについては明らかでない。
図版