妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

日陣門流

にちじんもんりゅう #3168

日陣門流

にちじんもんりゅう

日陣(一三三九-一四一九)を派祖として形成された団で、法華宗陣門流あるいは単に法華宗との呼称もあり、また越後三条の本成寺(現新潟県三条市)を本拠地とすることから本成寺派との別称がある。
日陣は越後瀬波郡荒川郷、佐々木姓栗原氏の出という。
正平元年(一三四六)八歳にして本成寺の代官日龍に師し円興房、門一阿闍梨と称した。
日龍の推挙によって京都本寺日静門下に入り研鑽にはげんだ。
日静入寂に臨んで応安二年(一三六九)六月に、本寺は日伝に、本成寺を日陣に譲った。に日陣三一歳であった。
日陣は朗門流の拠点本寺支配下の有力拠点であった本成寺の歴世として活躍し、北陸、奥州、関東さらに東海道にも弘通している。
元中初年には浜名湖畔の鷲津に至り、当地にあった真言宗の大寺に法論に挑んだ、その結果、真言宗徒は日陣に帰依し寺も本興寺と改めて転宗させている。以後当寺は日陣の重要拠点として重きをなしている。
次いで日陣は三河に入り、本成寺開創の日を開山とする尾尻の長福寺、宮地妙圀寺などを巡化し尾張に入り、名古屋稲生にある真言宗の大寺に法論を挑んでいる。これを破り改宗させ妙本寺と改名した。また隣村にも線を延ばし本能寺を創立している。
応永四年(一三九七)には上洛し本寺に入り談義に及んだ。
しかし、その折本寺内で広く行われていた本迹一致の教学に対して、日陣は本迹勝劣義の説を強調したという。
の本寺貫首は日陣と同門兄弟弟子の日伝であり、両者の論義法談は八ヵ年に及んだ。
なかでも応永一一年日伝の発した五五ヵ条の難問に対する日陣の返答は「本迹同異決」と呼称され、応永一二年五月三日をもって返報している。
この返報を最後に日陣は日伝と問答を打ち切り、本寺との交わりを絶っている。このことは本寺派からの分立と別派の創立を意味している。
かくして応永一三年四月には京都四条掘川油小路に小庵を創建し本禅寺と号している。
まもなく本禅寺は京都弘通中の弟子大賢日登に譲り、越後の本成寺に帰山している。
帰山後直ちに本迹勝劣義を強調し、動揺する本国寺系の寺院を論伏させて越後における本国寺系寺院を本成寺配下に組み込んでいる。
しかし後世の伝えではあるが本寺の巻き返しも激しかったが越後を中心に展開した本寺系の七〇〇余りの寺院の内半数の三〇〇余がこれに従ったという。
このことは日陣の分立が本団の勢を二分する大論争であったことを伝えている。
かくして日陣門流は本迹勝劣義を唱え本国寺より分立し、本成寺及び本禅寺更に本興寺を拠点として折伏諫暁の運動を続けている。
時代に至っても三ヵ寺は長尾氏、上杉氏、今川氏、徳川氏などの戦大名の動向の内にも密接な協力体制を維持し勢を守ったことが知られる。
しかし本勝迹劣を唱える折伏教線の伸張策は、全国統一権力抬頭の内に宗派的な偏執として自粛せざるをえないようになるのは当然であった。一部では末寺の離反がみられたりしている。
また陣門の本拠地が越後の本成寺におかれていたという地域的偏狭からくる統一政権との接触の悪さなどから、教団としての発展に限界が窺われ弱小団に留まらざるを得なかった。
江戸代には凡そ一七〇ヵ寺の末寺を支配している。
さらに団としては富士門流および八品流らとともに連合し勝劣派を形成している。
その外、注目すべきことは本禅寺における日蓮随身仏で海中出現の立像の釈尊像への信仰は江戸、京都で流行として広く知られていることである。
勝劣派の祖師信仰を考えるうえにおいて留意すべきものであろう。
明治維新以降は明治九年(一八七六)二月に日蓮宗本成寺派として別立したのち法華宗と呼称し、宗団法により本門流、真門流と合同して法華宗を形成したが、昭和二七年(一九五二)の法人法により三派分立して法人登記をなし、法華宗(陣門流)を呼称している。
《『日蓮団全史』上、本興寺編『本興寺誌』、辻之助著『日本仏教史』中世編三・四、小松邦彰・花野充道『日蓮教団の成立と展開』(春秋社『シリーズ日蓮』三)、『日蓮辞典』「日陣門流」の項

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