天晴会
天晴会
てんせいかい
明治三八年(一九〇五)顕本法華宗管長に就任した本多日生は統一団運動を発展させる中で、明治四二年一月天晴会を組織した。
この会は日蓮聖人を単なる一宗一派の祖師崇拝に止めず、真の仏法を伝える偉大なる聖者として、その教義及び事蹟の研究を行い、その成果をもって世道人心に裨益すべきとして結成したものである。
日露戦争戦勝後の国民精神の弛緩と物質主義的傾向を憂え、かつ過激思想の抬頭を察知し、宗教の重要性を当時の支配的立場にある者に領解せしめることの必要を痛感するところから発したことが諸記録によって明らかである。
即ち天晴会発足当初の主力メンバーは姉崎正治、高島平三郎、柴田一能、松本郡太郎、山田一英らであったが会員は宗教者を始め学者、軍人、教育家、官史、著述家、法律家、実業家等各界の代表的実力者が全国的に名を連ねている。
本会と同一目的を有する団体は全国各地に結成され、東京には婦人の団体「地明会」が生れて天晴会と両翼をなした。京都、大阪、神戸、姫路、豊橋、新潟、安房、金沢等次々と団結を見た。そのほか静岡等に地明会・晴明会等が結成され相呼応して運動を展開した。
日蓮鑽仰会や日蓮主義研究会が専門学校以上の学校にできて学生の研究熱が高まつたのもこの頃である。
各天晴会は毎月の例会のほか、演説会を盛んに行い、例会においては互いに講演者となって意気大いに挙った。
特に片瀬竜口寺を皮切りに各地において講習会が盛んに催された。
教誌『天晴地明』(編集人・小林一郎、発行人・吉田珍雄、発行所・統一閣)が発刊されたがやがて『統一』誌に統一された。