地明会
地明会
ちめいかい
明治二九年(一八九六)一二月一三日統一団を設立した本多日生(一八六七-一九三一)は、統一運動の過程の中で明治四二年一月、日蓮主義研鑽を目的として天晴会を組織した。
「天晴」は『本尊抄』における「天晴れぬれば地明らかなり(略)」の聖語に因ったもので、やがて明治四四年五月一四日婦人を対象として「地明会」を組織した。
毎月本多会長の講演が続行され、法要に講義に座談会に盛況を極めた。会場には青山の安川男爵邸がたびたび用いられている。
この会は本多日生の教化指導により、純潔な信仰を深め一家の中心としての主婦は法悦と理想と実行に満たされ、子女の教養、内助の功に寄与するところ多大なものがあった。
天晴会は姉崎正治、小林一郎、佐藤鉄太郎、山田三郎ら当時各界の名士を網羅する巨大な組織であり、日蓮聖人の教えの研鑽に努めると共に、互いに講演者となって世道人心に稗益した。
地明会は本多日生、小笠原某の発起によるもので、天晴会幹部の協力により、衆議院構内議員集会所を会場として発会した。
当日は本多日生の聖訓講義を始め、姉崎正治、小林一郎、松本郡太郎らの講演、小笠原長生夫人(秀子)の祝辞等が行われている。
姉崎正治の筆になる趣意書は、世間の運用は仏法の根本によって全きを得べきを示し日蓮の仏法こそ女人成仏の授記を証し、三身即一の本覚に帰せしめ、世間道義の大本を顕すものとして、婦人こそこの教えを体得し、信仰と生活とを一如せしむべきを促している。
当初の役員は幹事は江田綾子、葛城澄子、足立礼子、五島善子の四名、評議員は安川末子ら七名であった。
《『国史大辞典』一二巻「本多日生」の項》