日経(常楽院)
日経(常楽院)
にちきょう
(一五六〇-一六二〇)
にっきょうとも読み、常楽院と号す。
永禄三年上総二宮領一本松に生まれる。
日什門流の流れを汲み、慶長五年(一六〇〇)四一歳のとき京都妙満寺第二七世となる。
その学識・弁才ともに秀で、諸国を巡錫し諸宗を折伏。
また慶長法難の当事者として有名。
天正三年(一五七五)二三歳のとき磐城山崎にある浄土宗の談書では二〇日にわたる論戦の結果、これを論伏。
慶長二年三八歳、上総南横川方墳寺を創して七里法華の地における門徒の育成にあたり、同三-四年のころ、宇都宮で天台宗の三ヵ寺を相手に一一日間論戦して勝ち、同五年本山妙満寺貫主となる。
同一一年美濃に赴いて法陣をはり、同一三年には尾張に入る。
この当時は日経の廻国伝道は天下に鳴りひびいており、各地に衝動を与えたが、尾張に入るや浄土宗の僧俗が反撃に立ち上り、数十、数百人が群集してしばしば乱暴狼藉を加え、国外に追出そうとしたという。
また一方、堂々と宗論をもって屈服させようとする動きもあり、これには学問、弁舌を誇る熱田正覚寺の長老沢道があたることとなった。
そこで日経に問答を申し入れたが、日経は問答するならば、古来の格式により国主の検使を仰ぎ、広く諸経論を弁まえた経操り(経論の典拠を明らかにする役)を出し、判者は問答の格式を弁まえた人を選び、記録者は双方より出し、聴聞者の私語、発言を禁ずること、以上五ヵ条の条件を出し、これに問答時の無用の論をさけ、正規に議論を進行させるため二三ヵ条の質問を出し、反答を求めておいて、問答を引受けた。
浄土宗側では問答の格式はともかく、二三ヵ条の難問を駁論しようとしたが歯が立たず、江戸増上寺の源誉に援助を求め、源誉もまた自身の力に及ばぬことを知り、駿府(静岡県)の徳川家康にこの趣きを訴え、その他、日経のことを種々に讒奏した。
家康自身も天下を制する覇者として治国の政策上、日経の強硬な折伏態度が統制をみだし、民心統一のための支障となる点を考慮してか、いずれにしても家康は日経のことを聞いて不快に思い、これを破折すべく各宗の碵学を集めた。
そしてこの二三ヵ条を検討させたが、余り芳ばしくないようであったから、日経を懐柔して内々に解決させようとし、当時学匠として名のあり、公平な人格者と見られている足利学校の寒松禅珠をもって事にあたらせることとなった。
寒松は種々に日経を説き、二三ヵ条を誤りであるからと、取りさげればよしなに取りはからうが、と説得しようとしたが、日経はききいれない。
この二三ヵ条の法門はみな法華経の説であり、祖師の主張である。これを誤りと書けば法華経・祖師をきずつけ、自分は地獄におちるであろうといい、断固として拒否。家康はこの報告を聞いて激怒。
幕府要路、浄土宗側とも計略をめぐらし、江戸城中にて宗論させることで法華宗側の一方的敗北へと仕組んだ。
この宗論を慶長宗論という。
即ち慶長一三年一一月一五日、宗論当日の朝、宿所で上使を迎え、本日正午に宗論すべき旨のいい渡しを受けた日経は、その方法・儀式について問うたところ、上使についていた役人に襲撃され瀕死の重傷を負う。
しかし江戸城中より再三の出頭命令によって戸板にのせられて出仕、弟子達は問答の延期を言上するが聞きいれられず開始、江戸の新城の大広間に横たえた日経の左右には増上寺源誉、幡随意上人、鎌倉光明寺及把、鴻巣勝願寺不残等が列席、源誉の弟子廊山が対論者、高野山頼慶が判者、正面には将軍秀忠、大御所家康が着座し、池田輝政、浅野長政、上杉景勝、蒲生秀行らの重臣・大名が並んでいる。
問答は日経が全く悶絶の状態のため一語も答えることもかなわず、判者頼慶はかねて筋書通り浄土宗に勝を宣した。かくて日経の袈裟を剥ぎ取り、牢獄に入れた。
その間五人(長遠院日顕・正善院日寿・仏乗院日玄・境智院日秀・本行院日堯)の弟子は水責め、その他の拷問を受けた。
翌一四年二月二〇日、京都において弟子五人と共に洛中引きまわしのうえ、六条河原で耳鼻等をそぎおとされる。
五人の弟子達は鼻ばかり切られたが、日玄は出血多量でその夜のうちに寂す。
幕府は日経の師弟を追放し、一所に安住することを許さず、日経は知見谷にかくれて布教し、ついで小浜・福井・釜屋と諸国を流浪してのち前田家の庇護をうけ加賀に赴むく。
しかし間もなくこの地も幕府の知るところとなり、富山へと迫害の中を弘通し、元和六年一一月二二日富山在の外輪野で寂す。
時に六一歳、生涯に五〇余ヵ寺を建立したと伝える。
《宮崎英修『日蓮とその弟子』、『日蓮辞典』『日本仏教人名辞典』「日経」の項》