為宗会
為宗会
いしゅうかい
明治二一年(一八八八)七月二八日、東京白金覚林寺住職本間海解、谷中正法寺住職佐野前励は、当時の管長三村日修が諮問総会に提案した身延中心体制策を支持し『日蓮宗革命趣旨書』をもって合末の建議を提出し、扶宗同盟会を結成した。
この改革論に賛同する者は、改革派といわれ、全国に論陣を張って運動を展開した。
福井県には転本会、大阪には同志会が結成され、多くの支持運動があった。
一方、三村管長の身延山中心体制策は、本山側の反対にあって諮問総会は紛糾したが、漸く原案は修正可決された。
しかし本山側の反対が強く、宗制の認可申請を政府に提出することも困難な状態であった。
そこで改革派は明治二二年(一八八九)一月、改革策実施促進のため為宗会を結成したのである。
為宗会は、当局の改革策を支持し、その強化推進策として合末論を打出したが、これに反対したのは本山側であった。
京都妙顕寺、本圀寺、池上本門寺、中山法華経寺を中心とする本山側は、諮門総会における三村管長の身延山中心体制策に反対していたが、その対立の最中に為宗会(改革派)の合末運動が繰り広げられるにおよんで、なお一層、当局への反対姿勢を硬化し、本山同盟会を組織して、当局及び為宗会に対抗した。
本山側は保守の立場から本末関係を維持し、本山の基盤を守ろうと対抗したものである。
為宗会の運動は明治二五年一月の両者和解によって終結したが、結果は本山側の主張が通り、保守の立場が守られたのである。
《日蓮宗宗務院編『祖道復古』、影山堯雄「近代法華仏教運動の展開」(望月歓厚編『近代日本の法華仏教』)》