本末解消
本末解消
ほんまつかいしょう
昭和一六年(一九四一)三月、三派合同によって新しく宗教法人日蓮宗が生れると同時に、それまで長く存続していた本山末寺の関係を解消して、総本山大本山を除きすべての寺院の寺格が平等となった状況をいう。
徳川幕府がその封建制度確立のため仏教界に適用した政策は、全国に散在する夥しい寺院を中央集権的に把握することであった。
このためいかなる寺院もいずれかの本山に所属せしめ、本山を通じて全国寺院を支配する組織を確立した。
それまで杜撰であった寺院本末帖を整備するため、寛永(一六二四-四四)及び元禄(一六八八-一七〇四)の各年間に全国本山に命じて本末帖を作らせた。
これによって本山、本寺、中本寺、小本寺、末寺の上下階層組織を固め、本山以外は一切の無本寺(本山本寺に所属しない寺院)の存在を許さなかった。
明治政府に至って旧幕封建制の打破に努めたが、宗教政策の面では、この本末制度を踏襲した。
明治五年(一八七二)、新政府は管長制度を設けたが本末制度はそのまま継続した。
この時日蓮宗(日蓮宗一致派、勝劣五派を一括して総称する)に教導職管長一人を置かせたが、明治九年に至り、各派に一人ずつの管長を置くことを許した。
このとき単称日蓮宗においては、身延久遠寺を総本山、池上本門寺、京都妙顕寺、京都本圀寺、中山法華経寺を大本山と定め、その住職に管長被選資格を与えた。
国は各宗派に一人ずつの管長を置くことによって、当該宗派の支配を委ねたが、日蓮宗においては、在来、本山(本寺を含む。
以下同じ)の持っていた本末住職の任免権は、依然として本山が一半を保有していた。
即ち管長が末寺住職を任命するに際しては当該本山の同意を要し、その本山を経由して辞令を交付したのであって、任免権は管長と本山住職との共同行使によったのである。
末寺の財産管理についても同様のことがいえた。
即ち一宗を統理する管長制度が設けられたものの、本宗においては依然として本山が末寺と管長との間に介在していたのである。
時代はやがて昭和の戦時体制に入り、凡百の制度は統制的となり中央集権的となり宗門もまたこれに倣わざるを得なくなった。
宗門ではこの趨勢に応じて、昭和一三年三月第三三宗会においていわゆる「祖廟中心制度」を制定した。
それまで二、三の例外を除き、事実上総大本山の住職が交代で管長職に就いていたのが、宗制を改正し「管長ハ総本山久遠寺住職タル人コレニ任ズ」ることになった。
しかし大本山本山を除き全寺院を身延末にするまでには至らなかった。
かくて全宗門は、制度上永久に守塔沙門身延山法主を管長と仰ぐことによって信仰上と制度上の統一を図り当時の大政翼賛運動に参加できるとした。
昭和一四-五年に至り、国家権力は宗教界にも強力な圧力を加え始め、各宗教の教義内容にまで干渉の手を伸し、かつ共同の祖師を有する各宗派は極力合同して一本化すべしと要請してきた。
この頃宗門は新体制促進委員会を結成し、管長を総裁として宗門要路の人々を網羅し、しばしば会合協議した。
その議題のうちに本末解消論も大きな比重をもって含まれていた。
宗門の与論は解消論に傾いて来たが、肝心の本山側の意向を聴かなくてはならない。
昭和一五年一〇月一〇日総裁の名で本山会を召集したところ二八名の貫首が出席され、何らの付帯条件をもつけずに賛成可決された。
欠席者には直ちに決議を添えて報告する一方、末寺側の意向をただすため、同月一八日新体制促進委員会を開会し全員の同意を得た。
これと併行して宗派合同の協議が進められ紆余曲折を経て昭和一六年正月三宗派合同の合意に達した。
既に日蓮宗の本末解消の下準備ができていたので、他の二宗派もこれに同調した。
かくて同年三月の宗会で合同宗制案が通過したときは、同時に総本山大本山を除き本山はすべて別格山の名を保有することになった。
同時に本寺、中本寺、小本寺の名も消えることになった。
戦後に至り宗制上、別格山の名は大本山も含め、霊跡、由緒寺院の名に変ったが在来の沿革から大本山、本山と称することが認められるようになった。
しかし、これは末寺に対する実質的な本山の称号ではなく、単に沿革上の栄誉称号に過ぎない。
因みに法主即管長の制度は、この三派合同と共に消えた。