大教正
大教正
だいきょうせい
教導職一四級中の最高職。
明治五年(一八七二)、神道国教政策に失敗した政府は、永年にわたって積み注がれてきた仏教の浸透力の強さにおどろく一方、伝道宗教でない神道にはしょせん国民教化の限界があると覚った。従って政府は、キリスト教防圧の意味も含め、仏教(僧侶)を利用することによって国民教化運動の政策に転向した。
即ち「神佛合併大教院」設立がそれである。
地方の各府県の社寺に中教院、小教院を開設し、中央に大教院を置き全国的な組織とした。
ここに至って同年四月、「敬神愛国ノ旨ヲ体スベキ事」「天理人道ヲ明ニスベキ事」「皇上ヲ奉載シ朝旨ヲ遵守スベキ事」の「三条教則」を発布した。
政府はこれを弘める人々を神仏両道から集め、大教正・権大教正・中教正・権中教正・小教正・権少教正・大講義・権大講義・中講義・権中講義・少講義・権少講義・訓導・権訓導等の教導職一四級を設け与えた。
仏教側は神職と同じ扱いにまで引上げられたことに歓迎し、進んで教導職養成機関としての大教院設立に参加した。
明治五年六月一三日身延日健が全体の取締役として最初の大教正に任ぜられている。
翌六年、政府は神徳皇恩・人魂不死・天神造化・顕幽分界・愛国・神祭・鎮魂・君臣・父子・夫婦・大祓、等の「十一兼題」と、皇国々体・皇政一新・道不可変・制可随時・人異禽獣・不可不教・不可不学・外国交際・権利義務・役心役形・政体各種・文明開化・律法沿革・国治民法・富国強兵・租税賦役・産物制物、等の「十七兼題」の計二八兼題を発布した。
このような「三条教則」「十一兼題」「十七兼題」の発布に対し、仏教者は「三条教則」は仏法・王法の二者を結合したところの護国安民の大法であると述べ、人民はすべからく天皇と仏教とを信仰すべきであると強調し説くに至った。
他方神道者は、日本は万世一系の君これを治め給うと強調し、外教にうつるべからずと説いていた。
即ち、神仏は一なりというものと、仏は異国の神であると説く者によって、まったく矛盾する性質を有していたのである。
ところで新居日薩(一八三〇-八八)は、河田日因(一八二七-九九)と共に「十一兼題」の試験官として活躍し、大教院の主旨である「三条教則」の試験論文で『神徳皇恩の説』を発表した。
この論文が民衆教化運動の模範なる論として、準訓導から一躍中講義(後に小教正)に昇進したのである。
日薩のほかにも教導職を受けた人はいるが、身延山久遠寺第七二世北風日健(一七九〇-一八七四)が代表されよう。
日健は同五年四月二八日に権少教正を受け、六月一三日には大教正に任ぜられた。
明治八年大教院廃止の後も大教正は同一七年まで続けられたのである。
《辻善之助『日本文化史』七巻、『国史大辞典』四巻「教導職」の項》