妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

神仏分離

しんぶつぶんり #4311

神仏分離

しんぶつぶんり

判然ともいう。 明治元年(一八六八)、神道教化政策を理想とする維新政府の祭政一致の方針に基づく、従来の神習合廃止をいう。
学の四大人の一人、廃論者平田篤胤(一七七六-一八四三)の婿養子・平田鉄胤、篤胤の高弟矢野玄道、大隆正。 大の門下で維新のに奔走した実力者、還俗僧玉松操らの平田神道を中核とする維新政府の巨弾は、明治元年三月二八日の「神仏分離の令」となって現れた。 ち従来神社で奉仕していた別当社僧をまず復飾させ、仏像仏具等をことごとく神前あるいは神社境内より撤去、更に像をもって神体とすることを禁じ、神混淆の風習を禁止したのである。 これによって廃仏毀釈というような粗暴な措置に出る藩が多く現れたのである。 従って政府は翌四月一〇日「神仏分離実施を慎重ニスベキ令」を出し、行過ぎを矯めたが地方の諸藩にまでは行き届かず、同八年頃まで尾を引いて行われていたのである。 廃仏毀釈の内容は各藩によって様々であるが、薩摩藩の一例を挙げてみれば、大小寺院の廃寺総数一六六〇ヵ寺(うち日蓮宗寺院一三〇ヵ寺)、僧侶総数二九六四人。 このうち一八歳から四〇歳迄の青壮年の者は兵役。 学識あるものには員に、その他の者を農工商に任じ、像経巻等の全ては焼却している。
他方、日蓮宗教団の著名な廃寺は富山藩三二、土佐藩六、松本藩四、水戸藩一三、佐渡藩五三がある。 なかでも富山藩が代表される。 富山藩における廃仏毀釈の主謀者は林太仲(一八四一-一九一六)といわれ、この仕事を援助したのは真宗寺院出身の原弘三(一八四〇-一九一五)であった。 彼らは同三年一〇月二七-八日の両日中に、一派一寺から一宗一寺に合寺する旨を発令した。 また彼らはこの発令を遂行させるために武力を行使し、像、金属製仏具等の取りはずしから、僧侶に会議のいとまを与えぬように迅速にことを進めた。 その結果、六三〇ヵ寺を七ヵ寺(台・真言・浄土・臨済・曹洞・真宗・日蓮宗の一宗一寺)に合併させたのである。 更に翌年一〇月一四日には梵鐘太鼓等の使用を禁じた(他方、妙法結社に対する太鼓の規制もある)。 これに対して富山大法寺日祥(一八一九-七二)は藩庁へ再三懇願し、ようやく朝夕の看経に限り太鼓のみ打つが許された。 しかし六〇歳以上の者でなければ参詣は許されず、一般庭での法談も一々許可を得なければならず、他藩との交流は禁じられたのである。 ここにおいて身延第七二世日健(一七九〇-一八七四)は、諸宗の代表者と部省に宛てて富山藩の廃寺とりやめを請求する「謹奉願」を提出したが、同九年頃まで復興の萌は閉ざされていたのである。
このような廃仏毀釈が断行されて行くなかで、同二年一二月一一日、身延山において「廃仏毀釈解除の祈祷」が行われた。 一方、平田篤胤の思想を信奉する政府神道側は、篤胤の廃論書で名が高い『出定笑語』付録「神敵二宗論」をよりどころとして、神の敵として一向宗と日蓮宗団に弾圧を加えた。 ち同元年一〇月一八日に「神混淆ノ儀、御廃止仰セ出サレ候処、其ノ宗ニ於テハ従来三十番神ト称シ、皇祖大神ヲ奉始、其ノ神祇ヲ配祠シ、且ツ曼陀羅ト唱ヘ、天照皇大神、八幡大神等ノ御神号ヲ書加ヘ、剰サヘ死体ニ相着セ候経帷子ナドニモ神号相認メ候、実ニ謂レ無キ次第ニ付、向後禁止、総ベテ神祇ノ称号決シテ相混ジ申サザル様屹度相心得、宗派末末マデ洩サズ達ス可キ旨御沙汰候。 但シ是迄祭リ来候神像ナド其ノ宗派ニ於テ設ケ候分ハ速カニ焼却致ス可ク候」と禁じ、更に翌十一月には「七面大明神、鬼子母神、諏訪大明神」等に対しても、これが神体である以上神道に帰すべきであると、法華宗京都一六ヵ寺、全四二ヵ本山へ布達した。 また翌二年八月二五日には「社寺ニ於テ菊御紋ヲ用ユルヲ禁ズ」が布令された。 ここにおいて日蓮宗は東京の一五役寺が浅草の善立寺で会議を開き、天照八幡を認めることを暫く見合わせ、その所には紙を張ること、三十番神は焼却と称して戸を締切り隠し置くこと、七面大明神の額は外すこと、ただし七面天女と呼ぶこと、菊の御紋のついている所には色紙を張ること、などの四つの草案を身延山久遠寺に提出した。 その結果、身延は東京の觸頭の瑞輪寺、善立寺、宗延寺の三ヵ寺の名で末寺一統へ、
(一)照皇大神、八幡大御神、総ベテ宗廟神祇ノ分ハ仕舞オクベキ
(二)鎮守等アル分ハソノ氏子ヘ神像並ニ社寺相渡スベキ
(三)過去帳三十番神勧請アル分ハ仕舞オク
(四)御本尊中神号アル分モ右ニ同ジ。
(五)菊御紋法服着用ノ儀ハ遠慮ノ
(六)是迄各寺ニテ勧請シテアル仏像ノ神号ハ私ニ改ム可カザル
などの諸項を通達したのである。 これらはまさに神仏分離令の弾圧に遭遇した団の苦肉の策といえよう。
他方、かかる状況下において、同元年一二月に京都で各宗派が協力し合う会合として「諸宗同徳会盟」が発足した。 このような各宗派協力ということは、日本仏史上みられなかった出来ごとであった。 翌二年四月、政治の中心が東京に移されるや同会も東京に移り、第二回の会合は芝の増上寺で開かれるに至った。 同会に日蓮宗からは朗惺寺日因、小石川蓮乗寺日欽、池上山内の文嘉(新居日薩=一八三〇-八八)らが参加した。 同会はキリストを倒し、政府に迎合する姿勢を示すと同時に、神仏分離令によって起った廃仏毀釈の手加減を願い出たのである。 ち専ら体制順応、権力追随によって宗門の維新を図っていこうとしたのである。 新居日薩は同会に『日蓮宗建言』『池上学寮建言』を提出した。 日薩のこの建言は同会で討議した八ヵ条のなかの「自宗旧弊一洗之論」「三道鼎立練磨之論」として取上げられるに至った。 『日蓮宗建言』は主として「寺院僧侶の多いことはかえって其の法が衰微する基であるから、牒の法を厳しくしたい。 現在内の寺院はだいたい五〇万、僧侶は二〇〇万人いる。 これ等は実にき地や仕もせずにいる民である。 したがって寺は五万だけを残し、四五万を減す。 僧侶は全体の二分の四〇万を留めて、一六〇万人は減す。 そしてこれ等の僧にき地を与えて開墾させれば、無用から有用になるであろう。 よって牒は一年に四〇〇〇人を限としたい。 もしそれでも多いようならば、ころあいをみて減せば宜しい」(筆者意訳)というもので、幕末期における経済学者の排論にも似たものであった。 『池上学寮建言』は「ソノ大要所謂神儒三道是ナリ、神ヲ以テ本ヲ知シム、儒ヲ以テ政ヲ資ケシム、ヲ以テ民ヲ安ンゼシム、ソノ教ヲ為ス方法異ナルト雖ドモ、ソノ所以為善者一也、コレ三教ノ鼎立シテ、闕クベカラザル所也」と論じ、優陀那日輝(一八〇〇-五九)が三教の役割を明らかにした『妙宗破明論』の所論を引用し、儒が神道と密接不離の関係にあることを強調したのである。
清水龍山編『新居日薩』、村上専精・辻善之助・鷲尾順敬編『神仏分離史料』三巻・五巻、牧野内寛清『明治仏教史上に於ける新居日薩』、井上恵宏『身延山史』、『岩波仏教辞典』「神仏分離」の項、『国史大辞典』七巻「神仏分離令」の項

← 事典トップ