妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

大野法難

おおのほうなん #1382

大野法難

おおのほうなん

正年間上総(千葉県房総半島中央部)伊北(大多喜の東南引田地方)では、行川妙泉寺・大野光福寺が伊北の両寺といわれる程に日蓮宗の教勢が頗る盛んであり、比企谷門流の有力な拠点となっていた。
この行川・大野の両寺の地域は天台宗の勢力範囲であり、そこに日蓮宗が勢力を伸ばしてきたということは、常に天台宗および諸他の寺院との衝突の危険があり、妙泉寺・光福寺の両寺は、これらに直接対峙する日蓮宗の本拠となっていた。
この状況下、正一三年(一五八五)三月末、天台宗日蓮宗はついに宗論を行い、武器を取って戦うに至った。
宗論の様子はいかようであったかは明白ではないが、宗論ののち、同年四月二日に戦闘があり、領主たる安房の里見義頼によって件がおさまったが当の史料によって知られる。
大野光福寺より北へ一キロ余りの所に天台宗東陽寺があり、それより北二-三〇〇メートルの所に光福寺末の本顕寺がある。
同年三月、本顕寺日忍と東陽寺主との間、または光福寺日穏と東陽寺主との間に行われたともいい(本顕寺過去帳奥書、同地の伝説によれば日忍と東陽寺、両山日顗の里見善頼書状添書には日穏と東陽寺との間)、確かではないが宗論が生じ、四月二日宗論にやぶれた東陽寺は同寺の僧俗を召集して不意に本顕寺に攻め、火を放って同寺を焼き、更に行川妙泉寺・光福寺を焼いた。
里見臣大多喜城主正木大膳が義頼の命をうけて鎮定せんとしたが、すでに日蓮宗側の寺は焼かれ、光福寺日穏・本顕寺日忍を始め両方に多くの戦死者を出していた。
その後、不意をつかれた日蓮宗側も急拠援軍を求め、天台宗側もまた諸宗連合の兵を集め、里見領北地域は大になろうとしたために、里見義頼が件の拾収に乗りだし、紛争を収めた。
両山(比企谷妙本寺・池上本門寺)一二世日惺も上総付近の諸末寺に援護を命じ、また里見義頼に書状にて処方を依頼し、この法難に助力していた。 この件を大野法難という。 関東地方における宗徒の意気盛んな情勢がうかがえる件である。
《影山堯雄『日蓮団史概説』、加川治良『房総禁制宗門史』、立正大学日蓮教学研究所編『日蓮団全史』上》

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