教化抄
教化抄
きょうけしょう
本宗の祈祷修法に当って、その願主ならびに願主に憑依する霊気を教化得脱させるために必要な修法要文のことである。
願主を祈祷するに当って、その憑依霊気の状態を観察し、本人に障っていると思われる邪霊気を五種類に分類している。
即ち、(一)生霊。
(二)死霊。
(三)野狐(鬼畜怨霊、狐着〈憑〉ともいう)。
(四)疫神(疫病ともいう)。
(五)呪詛。
実際の祈祷に当ってはこの五つの邪霊気のうちの一つ、あるいは複数の霊気が障っているということが、本人の唱題信仰と祈祷修法によって明らかになってくる。
これらの邪霊気に対し修法師は、法華経の功力、即ち妙法経力の発動を御本尊に願い、また聖人の御言葉等を引用し、繰返し憑依霊気に対し読み聞かせて憑霊の成仏得道を祈り、その障っている願主の心身より離れ去る様に教諭し、願主も素直な心即ち質直柔軟の心を持つ様に教導する祈濤修法上の文章が即ち教化抄である。
この『教化抄』がいつからあったかは不明であるが、文書になっている相伝書を歴史的に挙げてその変遷を見てみる。
承応二年(一六五三)に書写された大阪府高槻市梶原一乗寺蔵の修法伝書に「生霊、死霊、生死霊、疫神、疫病、野狐、霊気、呪誼」等の文字があることは、この頃既に五種類の邪霊気を認めていたことになる。
その教諭の文章は、(1)疫神遠離秘法、(2)死霊遠離教訓、(3)霊気教化、(4)呪詛秘伝肝文、(5)六句陀羅尼(註・五種の邪気教諭)、(6)遠離之教諭(同)、(7)本門本尊肝心抄(註・悪霊、生霊、死霊、呪詛教諭)、(8)三宝肝心抄(同)、(9)引取ノ文 などがあり、この様に多くの教化用の文書が示され、また引取の文が添えてあったことは、この当時盛んであった「寄加持」と平行する様に「現加持」も相当に行われていたことを物語るものである。
この「引取ノ文」は後の明治の「引取教化抄」の前駆をなすものと思われる貴重なものである。
金沢市・法立寺蔵、寛文五年(一六六五)書写の中山流のもので、(1)深死霊遠離之教訓、(2)十二神肝心遠離勧(註・疫神教諭)、(3)一流疫神遠離経。
があり中山流教化抄の古い形のものを知ることができる。
中山遠寿院蔵、正徳四年(一七一四)の当流加行目録によると、(1)法華肝心抄(本門本尊肝心抄と同一のもの)、(2)三宝肝心抄、(3)死霊遠離教訓、(4)読誦法用抄(註・悪霊、呪誼、怨霊教諭)、(5)遠離教(疫神教諭)、(6)霊気教化(疫神教諭)、(7)法華肝心加持誦文(呪詛教諭)、(8)六句陀羅尼(五種の霊気教諭)、(9)遠離教訓(同)。
以上の如き教諭抄があり、これらは現在までも活用されており、『教化抄』という名称はないが有用なものである。
享保一七年(一七三二)に出版された唯観流の『修験故事便覧』には「教化抄」について語るところはないが、止観禅定を主としたこの流派のことであるから、改めて「教化抄」を必要としなかったのかも知れぬ。
しかし、享保三年(一七一八)に書写された唯観流伝書には、「唯寛流呪詛遠離」(寛は観に音通がある)が示されており、また延享四年(一七四七)書写の同流伝書には「生霊、死霊、畜生、邪神、狐」等を挙げて全部を霊気とし「能着の霊気」「所着の霊気」とし、共に教化すとあるが教諭章の如きは書かれてなく、その法座は簡単で強引なやり方を示している。
寛永六年(一六二九)より享保一五年(一七三〇)までに書写された身延山蔵のものは、(1)疫神遠離経、(2)疫神遠離秘法、(3)中山遠離生霊死霊遠離、(4)鬼神遠離抄、(5)番神遠離抄、(6)邪気霊気遠離秘法、(7)読誦法用抄、(8)呪詛返本門本尊肝心抄(本門本尊抄と同一)の如きものがあるが、いずれも正中山流のものとある。
『呪誼返本門本尊肝心抄』の後書きに「この抄は(呪詛の外)生霊、死霊、野狐等のために悩まされ、時に応じた御符守等を与えても、一日三日と修法しても験しのない場合に用いるもので、そのやり方は口伝の通りである」(意訳)。
この文章で不思議に感じられることは「呪詛返」と銘打った教諭抄を他の複数以上の霊気の教諭に用いていることである。
このことは一つの教諭抄を他の霊気の教化にも利用して、いまだ個々の教諭抄が相伝されないことで、この時代はまだ「現加持」の修法より「寄加持」の方が盛んであったと考えられることである。
また身延山におけるこの一〇〇年間の修法の流れは「現加持」という祈祷方式に消極的であったのであろうが、すべて正中山流のもので身延独特のものは上記の如く皆無である。
ところがこれより一〇〇年後の天保年間(一八三〇-四四)になると身延山積善坊流の伝書には多くの独自の教諭抄が相伝されていて、「現加持」方式を積極的に取入れたことが知れる。
これら江戸中期頃迄のものは「教化抄」という題名のものはなく、繰物、繰文、肝文あるいは秘法、教訓とも呼ばれ法華経の経文を主としていて、「百遍も二百遍も繰るべし」とあって、何辺も繰返して願主とその憑依霊に読み聞かせたもので、その教諭抄の一部が祈祷繰物より祈祷繰文となり、祈祷肝文にと変化して行くのである。
智泉院流のものはこの流派の特徴で、余り教諭抄はなく、宝暦一〇年(一七六〇)の伝書には、(1)法華肝心用心抄、(2)法華読誦用心抄、(3)飯縄返、(4)呪誼遠離秘法、のものが記されているが、天保七年(一八三六)の伝書には教諭抄は示されていない。
江戸時代も後期の文化・文政・天保の修法最盛期に入ると、五種の邪霊気に対して一つ一つの教諭抄の相承が始まっている。
中山遠寿院流では天保一四年(一八四三)に同院第一二代大慈日心相伝の、(1)狐魅教訓、(2)野狐鬼畜本源教諭、(3)呪誼障礙神教化、があり、野狐霊に対する教化対策が詳細に示されている。
身延積善坊流では、天保一一年(一八四〇)書写の伝書に、(1)本尊肝心章、(2)三宝肝心章、(3)読誦法華用心抄、(4)二鬼神秘法章、(5)飯縄返之秘法章(天狗付、呪誼野狐)、(6)六句陀羅尼之秘事、この他、新たに加えられた教諭抄は、(7)死霊遠離教訓章、(8)生霊遠離教訓章、(9)呪詛遠離教訓章、(10)水神遠離秘法章、(11)疫神遠離秘法章、(12)鬼神遠離秘法章、等が記されているが、この章の特徴は生霊、死霊、呪詛の各教訓章、水神、疫神の各秘法章の勧請文が皆同一であることで、このことはその内容は異なるが、明治期に相伝される五段教化抄の勧請形式の前駆をなすものであろう。
この様に五種の障碍の一つ一つに教化を集中するようになってきたことは、修法上の進歩ともいうべきであろう。
これが幕末の動乱を経過して明治維新となると、加行所も遠寿院のみとなり、種々の面で本宗の祈祷修法に再検討が加えられ、明治九年(一八七六)『祈祷故事略旨』、明治一一年『加持病患祈祷肝文鈔』等が出版され、簡単ではあるが祈祷修法の内容について指導的な解説を示し、行過ぎのない様に指示されている。
この間に本宗の修法界は殷賑を呈し始めたことは、入行僧の年々の増加によっても知られるところである。
明治二一年『法華験家訓蒙』が出版され、前記の二著と共に修法師の指針となったのであるが、教化抄に対する教示は一個所もない。
思うにこのことは、口伝に関する秘事でもあるため故意に避けたのであろう。
明治に入り、統一再開された正中山遠寿院加行所の相伝の伝書には少しずつ変化が見られ、明治四〇年以降には、その相伝書の内容も撰択整備されていて、新たに相伝された教諭抄は、(1)生霊段教化抄、(2)死霊段教化抄、(3)疫神段教化抄、(4)鬼畜霊気段教化抄(狐着段教化抄ともいう)、(5)呪詛段教化抄、であり、これらのものは五段教化抄とも、五段教諭抄ともいわれている。
いずれも漢文体で名称も統一され、その内容は初めの勧請文と終りの結願文が皆同一であり、今迄の教諭抄より一段とすすみ、個々についての教化が充実していることである。
なおこの五段教化抄の相承と前後して『五段引取教化抄』(漢文体)の成立相承もあって「現加持」法式が一応出来上ったことも知られるのである。
霊障の祈祷修法に当り、憑依の邪霊気に対し折伏ともいうべき法華経の読誦と法門の道理を交えて説く摂受教化文を繰返し読み聞かせることは、如何なる強情な邪霊気も成仏得脱の要因となり、また願主自身への教化ともなって、いわゆる唯観流の所着、能着共に了解を得せしめ心身の治療に益すること疑いないこととあって、大正時代の加行僧は競って教化抄の相伝を受けたようである。
(加藤瑞光)