新撰校正祖書目次
新撰校正祖書目次
しんせんこうせいそしょもくじ
玄修院智英日明(一七四五-一八一六)の編。
文化二年(一八一四)成立。
日明は尾張国萱津妙法寺第二六世・山科檀林玄講・求法院檀林一七〇世の化主。
これより先、天明元年(一七八一)日明は、日蓮聖人の五〇〇遠忌を求法院檀林で迎えたが、祖師への報恩のため、遺文の校正を思い立ったという。
しかし実際にその仕事に従事するようになるのは寛政一〇年(一七九八)のころからで、以後、尾張国本郷に隠栖してこのことに当り、一七年の歳月を費して、その一応の完成を見た。
時に文化一一年であった。
この『日明目録』の自序には、それまでの遺文の集成や刊本および目録の編集の動向を概観したところがあり、近世の遺文編集の歴史を知る手がかりを示している。
『日明目録』の体裁は『日奥目録』『日諦目録』のそれを承けて編年体である、所収遺文は新加の分とも凡そ四一〇篇。
同書凡例には重複のため除いたもの、開合したもの、新加の分を列挙し、以下『日明目録』には仁治三年(一二四二)の『戒体即身成仏義』を最初に弘安五年(一二八二)の最末に『法華本門血脈相承事』を据えている。
「書目はあるいは与ふるところの名をもって題となし、異名あらば、あるいはその傍に記し、一書異名多ければ、唯その一を挙ぐるのみ」として遺文名表記は、日諦のそれを踏襲している。
この『日明目録』も『新撰祖書』そのものも刊行されることはなかった。
校正の事業も必ずしも精密ではなかったと小川泰堂は述べている。
やがて小川がこの事業を継承して『高祖遺文録』に結実させていったのである。
しかし、この『日明目録』は一部では書写され参照されたらしい。
それは慧光日聡の写本があり、その識語によれば、日聡はこの目録あるを知って四方を尋ね、安政二年(一八五五)加賀国金沢立像寺学室、即ち充洽園に遊学中、本書を得てこれを書写・秘蔵するにいたったという。
充洽園は優陀那日輝の学室であり、日輝に多くの遺文の註解があり、その参考資料として『日奥目録』『日諦目録』やこの『日明目録』が蒐集されていたのではなかろうか。
なお自序で示したように、日明が日奥・日諦の目録を参照したことは、同『日明目録』完成の前年文化一〇年甲斐国仲条長遠寺日妙書写の『日奥目録』を日明が伝えていたことや書名表記が日諦のそれを踏襲していたことに徴して明らかである。
《浅井要麟「御書編纂の史的概観」『日蓮聖人教学の研究』》