相似の五逆
相似の五逆
そうじのごぎゃく
五逆罪に似た罪、五逆罪と同等の罪のこと。
日蓮聖人は『顕謗法鈔』でこのように説く(定二五四)。「五逆罪申は一殺父、二殺母、三殺阿羅漢、四出仏身血、五破和合僧なり。今の世には仏ましまさず。しかれば出仏身血あるべからず。和合僧なければ破和合僧なし」五逆罪とは殺父・殺母・殺阿羅漢・破和合僧・出仏身血の五大罪である。
これは仏在世のことであって、末法の今の世では生身の釈尊も阿羅漢もいないし、和合僧もなくまた法律の規制が厳しいので殺父母も犯し難い。
しかし五逆に相似した罪はある。
即ち木画の仏像や堂塔を焼いたり、その仏像等の寄進の所を奪い取ったり、卒塔婆等を切り焼いたり、智人を殺したりすることが相似の五逆に当る。また『顕謗法鈔』に「此経文の心は法華経の行者を悪口し、及杖以打擲せるもの、其後に懺悔せりといえども、罪いまだ滅ずして、千劫阿鼻地獄に堕たりと見えぬ。懺悔せる謗法の罪すら五逆罪に千倍せり」(定二五五)とあり、五逆は世俗倫理的のように見えるが仏教の真実究明の力面からすれば日蓮聖人のいう不孝の罪であり謗法罪である。
謗法罪の本質は一切世間の仏種を断ずることであるが、日蓮聖人は『南条兵衛七郎殿御書』に、「させる語を以て法華経を謗ずる人はすくなけれども、人ごとに法華経をばもちゐず。又もちゐたるやうなれども念仏等のやうには信心ふかからず。
信心ふかき者も法華経のかたきをばせめず。いかなる大善をつくり、法華経を千萬部読み書写し、一念三千の観道を得たる人なりとも、法華経のかたきをだにもせめざれば得道ありがたし」(定三二一頁)と独特の解釈をしている。
末法の衆生は一同に本未有善の機であり、毒発悶乱の失本心者であり、三五の遠化を忘失している者である。阿鼻地獄に堕ちることが決定している者である。
この五逆謗法の自覚に到達しなければ日蓮聖人の信仰は理解できない。
五逆・謗法の機であるが故に最勝の法華経受持が絶対の必要条件であり、釈尊の付属を受けた上行菩薩の下種が必要であり、南無妙法蓮華経の五字七字の受持の信心が必要となるのである。
「但し相似の五逆罪これあり」(『顕謗法鈔』定二五四頁)、「五逆をばおかさざれども五逆に似たる罪又日日におかす」(『南条兵衛七郎殿御書』定三二一頁)、「又相似の五逆と申すも候」(『法門可被申様之事』定四四六頁)。
《『遺文辞典』教学篇「相似の五逆罪(そうじのごぎゃくざい)」の項》