性悪
性悪
しょうあく
修悪に対する語で、仏の性に悪があるの意。
天台教学の特色の一つ。
一般に人間の本性を性善(せいぜん)説・性悪(せいあく)説の性悪もあるが、いまは天台教学について論ずる。
天台大師智顗説と伝えられている『観音玄義』巻上に「問う、縁と了とに既に性徳の善あり、又性徳の悪ありや否や。
答う具す。
問う。
闡提と仏と何等の善悪を断ずるや。
答う。
闡提は修善を断じ尽して但だ性善あり。
仏は修悪を断じ尽して但だ性悪あり。
云云」と説かれる段があるが、ここをもって性悪説の根拠とする。
従来仏は清浄のものであって、煩悩を断じ、悪を離れたるものと解せられ、本来清浄であるべき仏が、悪をもつことは一般に理解に苦しむところである。
この考え方は衆生を救済するために仏は悪を自己に持ち、この悪をもって悪をもつ衆生に与同し、これを教化せんと図るのである。
いわゆる化他行のために仏はかかる悪を自己に止めておくということである。
しかるに清浄であるべき仏が悪をもつということに反発をし、それを説く『観音玄義』は偽作であるとする説もあり、過去に種々の論議がなされてきた。
『観音玄義』は智顗説とあっても智顗の撰述ではないという疑義がまた他の理由から述べられ、この著作は恐らくは灌頂のものと判ぜられる。
そしてそれは『法華玄義』指南書として書き下された撰述とみられるとされている。
性悪説は天台第六祖たる荊渓湛然(七一一-七八三)の『止観義例』巻上に「仏は本と性悪の法を断ぜず、故に性悪若し断ぜば普賢の色身は何に従ってか立たん」と述べられている。
よって湛然在世年代には、一つの天台の教理論として固定したものと思える。
だがこの説は『大乗起信論』にも既にその考え方があるとされる。
即ち「如来蔵に依るが故に生滅の心あり。
所謂不生不滅と生滅と和合して一に非ず異に非ざるを名づけて阿黎耶識とす。
此の識に二種の義あり、能く一切の法を摂し、一切の法を生ず。
云何が二となす。
一には覚の義。
二には不覚の義なり」とあるにより、これが性悪思想であるとされる。
この考え方は、従って華厳教学の性起の考えにも存在するとされ、例えば澄観の『華厳経疏』巻二一に「応に心仏衆生は体性皆無盡なりと云うべし。
妄の体も本と真なるを以ての故に無盡なり。
是を以て如来は性悪を断ぜず。
亦なお闡提の性善を断ぜざるが如し」と説かれることを論拠とする。
天台教学は華厳教学が性起であるに対し、性具であると主張されるが、その性具の考えが性悪であると四明知礼などは主張する。
例えば四明知礼の『教行録』などにその所説がみられる。
日蓮聖人は三九歳作の『二乗作仏事』において「震旦の人師の中には天台の外、性悪の名目あらざりけるか」と断じ、澄観が『起信論』の名目を借りて性悪の義を立てるのは「天台の名目を偸んで自宗の内証と為す」(定一五五頁)という。
《『遺文辞典』教学篇「性悪」の項、『岩波仏教辞典』「性悪説」「性善・性悪」」の項》