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九横の大難

くおうのだいなん #365

九横の大難

くおうのだいなん

、十宿のこと。
釈尊在世中、釈尊及びその弟子達が衆生化する間に種々の妨害や困難に遭遇したが、それを一般には九、あるいは十宿という。
日蓮聖人はそれらの妨害、困難を九横の大難と表現する。
九横の大難についての件名には諸説があるが、おおよそ次の九種をいう。
(1)孫陀梨の謗り(婬女孫陀梨に釈尊と関係したと謗られ、また孫陀梨は外道に謀殺されたが、それを仏徒のしわざとして宣伝された)、(2)金鏘(こんず)(釈尊が阿難をひきいて婆羅門城で乞食したが得られず、ただ老いたる下婢に破れた瓦器にくさい潘淀(ばんでい)を盛られて供養された)、(3)阿耆多王の馬麦(めみやく)(阿耆多王が釈尊に法を請うたが、王は享楽にふけり供養するのを忘れて馬に食わせる麦を施され、九〇日間の長きに及んだ)、(4)琉璃の殺釈(舎衛の王である波琉璃王が太子の頃、釈迦族の下婢と結婚したと屈辱をうけ、王位についた後兵をおこして釈迦族の多くを殺した。 その、報を聞いた釈尊は頭を痛めた)、(5)乞食空鉢(釈尊が阿難を率いて婆羅門城に至り法を説こうとした時、王が布施を制止したため人々は法を聞かず空の鉢をだした)、(6)旃遮女の謗り(釈尊がまだ煩悩を断じていない常歓比丘だった頃、旃遮婆羅門女と無勝比丘とが通じたと誹謗したのは、妬心が生じたからだと旃遮女に謗られた)、(7)調達が山を推す(提婆達多が釈尊を殺そうとして耆闍崛山より大石を押し、通りかかった釈尊の頭めがけて投げつけた。 しかし幸いなことに釈尊は難をのがれ、足の母指を負傷しただけですんだ)、(8)寒風に衣を索む(冬至前の八夜、竹が破れるような寒風が吹き釈尊は衣を索めて寒さを防いだが、寒風に耐えたため背を痛めた)、(9)六年の苦行(成道以前、釈尊は六年間の苦行をした)。
以上が九横の大難の件名であるが、その典拠は『大智度論』(『正蔵』二五巻一二一頁C)と『興起行経』(『正蔵』四巻一六五頁C)に求められる。
『大論』においては「一には梵志女、孫陀はを謗り、五百阿羅漢もまた謗らる。 二には旃遮婆羅門女、不盂を繋ぎ腹と作して法を謗る。 三には提婆達多山を推し、を壓えて足の大指を傷つく。 四には迸木脚を刺す。 五には毘樓璃王兵を興して諸の釈子を殺し、に頭痛し。 六には阿耆達多婆羅門の請を受けて馬麦を食う。 七には冷風動じし故に脊痛む。 八には六年の苦行。 九には冬至の前の八夜寒風竹を破し、三衣を索めて寒を禦ぐこと有り」の九種の件名が説かれ、『興起行経』においては「孫陀利の謗。 奢弥婆の謗。 頭の痛。 骨節の痛。 背の痛。 木槍脚を刺す。 調達石を擲げ。 旃遮の謗。 馬麦を食ふ。 六年の苦行」の一〇種の件名が説かれる。
『大論』と『興起行経』とを比べた、件名の数、その内容に違いがある。 『大論』は九種で『興起行経』は一〇種であり、『大論』には『興起行経』の「奢弥婆の謗」「骨節の痛」の二件は説示されていない。
また聖人九横の大難と表現するも件名の数、その内容に同異がある。
例えば『開目抄』(定五六四-五頁)においては、(1)提婆が大石をとばせし、(2)阿闍世王の酔象を放し、(3)阿耆多王の馬麦、(4)婆羅門城のこんづ、(5)せんしゃ婆羅門女が鉢を腹にふせし、(6)無量の釈子は波瑠璃王に殺され、(7)千万の眷属は酔象にふまれ、(8)華色比丘尼は提多にがいされ、(9)迦盧提尊者は馬糞にうづまれ、(10)目犍尊者は竹杖にがいせらる。
と一〇種の件名を挙げ、『法華行者値難』(定七九七頁)においては、(1)孫陀梨の謗、(2)金鏘、(3)馬麦、(4)琉璃の釈を殺す、(5)乞食鉢、(6)旃遮女の謗、(7)調達が山を推す、(8)寒風に衣を索む。 の八件を挙げている。
この他『報恩抄』(定一一九八-九頁)においては自らの法難史を回顧する前段に三国流伝史を説示するなかで述べられている。
以上の三遺文を比較した、その件名・内容もさまざまである。 そして、件名の一々についての解説は全くされていない。
しかし遺文の件名に同異があるにしろ、これらを総括して表現したのが九横の大難であり、また、そこには聖人独得の釈尊観が内在するのである。 「は小指を提婆にやぶられ、九横の大難に値ひ給ふ。 此は法華経の行者にあらずや。 不軽菩薩一乗の行者といわれまじきか。 目連は竹杖(外道)に殺さる。 法華経記莂の後なり。 付法蔵の第十四の提婆菩薩・第二十五の師子尊者の二人は人に殺されぬ。 此等は法華経の行者にはあらざるか」(定五九九頁)と述べ、釈尊も九横の大難に遭われているのであり、釈尊も法華経の行者であると明言するのである。
そして釈尊の前身である不軽菩薩は種々の法難を被って法華一乗の行者とはいわれなかったのか、といって釈尊が法華経の行者の先駆者であるという論を補っている。
更に目連・提婆菩薩・師子尊者等をあげ、仏法の流布のため身命を賭す者は全て法華経の行者であるとしている。
このように聖人は釈尊を法華経の行者の先駆者として捉えるわけであるが、その経典証拠を法師品に求めている。
聖人御難事』(定一六七二-三頁)によれば「而も此経は如来の現在すらなお怨嫉多し」の文は釈尊在世九横の大難であり、「況んや滅度の後をや」の文は龍樹・天親・天台・伝教がいまだ被ったことのない大難であるとし、聖人自らが被ってきた難こそがその文にあたることを表明するのである。
更には聖人日本国に生れて「況んや滅度の後をや」の大難を被らなければ、釈尊は大妄語の人となってしまうとまで言及するのである。
以上のように、九横の大難の件名、その内容は典拠(『大論』『興起行経』)において同異があり、また聖人遺文においても違いがある。
しかし件名・内容に同異があるにしろ聖人はそれらを総括して九横の大難と表現する。 そこには聖人独得の釈尊観が展開されるのである。
滅後における弘の困難を克服する意図の上に「如来の現在すらなほ怨嫉多し」の経証をあげて釈尊を法華経の行者の先駆者として捉えるのである。
《『遺文辞典』歴史篇「九横の大難」の項、『日蓮辞典』「九横の大難」の項》
(浜島典彦)

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