四条賜書
四条賜書
しじょうししょ
四条氏は四条中務三郎左衛門尉頼基といい、北条氏一門の江馬光時の従者であった。
妻は日眼女、子は月満御前という。
四大檀越の一人。
早くから日蓮聖人に帰依し、文永八年(一二七一)の竜口法難の時には殉死の覚悟を示した。
佐渡配流の日蓮聖人を自ら訪れ、あるいは使者を遣わして供養の品々を送るなどして身辺を案じた。
その際、日蓮聖人は『開目抄』を委託されている。
建治三年(一二七七)、桑谷における三位房の法論に連座して主君の勘気を蒙り、日蓮聖人と法華経を捨てる旨の起請文を書けと迫られた。
四条氏は領地没収を覚悟の上で不退転を表明したことを受けて、日蓮聖人は身延から直ちに金吾の名の下に陳状一篇を草して送ったのである。
翌年には事態は好転し、弘安二年(一二七九)には先に没収された所領を返されたのみならず、新たに土地を与えられた。
また四条氏は医術に明るく、日蓮聖人はしばしば金吾の薬を服している。
晩年は甲州内船に隠棲し、身延に端場坊を創して日蓮聖人の廟に服喪給仕した。
永仁四年(一二九六)三月、六七歳で没す。
四条氏は一徹な鎌倉武士で、直情径行の性格の持主であったが、その信仰は非常に堅く深いものがあった。
四条氏への賜書として『昭和定本日蓮聖人遺文』に収録されているものは三八篇である(第三巻「対告別消息索引」による。列記数は三九篇であるが共与書一篇が除かれた数値)。
以下『定本遺文』の順序に従って解説していこう。
なお四条氏の詳細な伝記については、別項該当項目を参照されたい。
(一)四条金吾女房御書(しじようきんごにようぼうごしよ)(七八)=一篇。
文永八年五月七日付書状。
真蹟は伝わらない。
本抄は一説には弁阿闍梨日昭の兄で、印東三郎左衛門祐信の夫人へ与えられたといい、その考えから「印東金吾女房鈔」と呼んだこともある。
しかし本抄は次の『月満御前御書』と、その内容が相応するところから、この二書は密接不離の関係にある。
内容は日眼女が懐妊した報に接した日蓮聖人が、夫婦共に法華経の持者であるから、法華経の魂を継ぐべき玉のような福子が生れるであろうと祝福し、ただ、法華経を信じ法華経に任せればよいと励まされ、安産の口伝を伝えたものである。
(二)月満御前御書(つきまろごぜごしよ)(七九)=一篇。
文永八年五月の書状。
真蹟は伝わらない。
日蓮聖人が、四条金吾夫妻に女子の誕生したことを祝福された手紙で、日蓮聖人はその子に月満御前と命名し、教主釈尊と八幡大菩薩も四月八日の誕生であるから、釈尊か八幡大菩薩の生れ替りであろうと祝福されている。
(三)四条金吾殿御書(しじようきんごどのごしよ)(八二)=一篇。
文永八年七月一二日付書状。
「施餓鬼御書」とも呼ばれる。
真蹟は伝わらない。
四条氏が母妙法尼の一周忌に当り、亡母追善のため種々の供養物に添えて施餓鬼の由来を質問してきたため、日蓮聖人は、盂蘭盆の起原を説き、施餓鬼の功徳を述べて、故聖霊妙法尼の果報の勝れたることを告げ、四条氏の孝心を誉め、法華経の信心をいよいよ励むよう訓誡されている。
(四)四条金吾殿御消息(しじようきんごどのごしようそく)(八七)=一篇。
文永八年九月二一日、相模の依智から送られた書状。
真蹟は伝わらない。
本抄は龍口の危機を脱れて依智へ入られた聖人が、四条氏の純信を称え、諸天の加護あるべきを告げた消息である。
即ち龍口法難の際に、四条氏が殉死の決意を示したことを誉め称え、龍口こそ聖人の生命を留めた処であるから仏土であると述べ、諸天、ことに日天子の守護の必定を説き、強盛の信心を激励されている。
(五)同生同名御書(どうしようどうみようごしよ)(一〇四)=一篇。
文永九年(一二七二)四月、佐渡配流中の聖人を訪れた四条氏の帰るに際し、夫人へ送られた書状。
真蹟は伝わらない。
内容は濁世末法に法華経を持つことは非常な難事であるが、夫妻共に心を合せ法華経を信じていることを称賛し、特に遠く佐渡まで夫を遣した妻の志を感謝し、その功徳の少なからざることを述べて信仰を励まされている。
(六)四条金吾殿御返事(しじようきんごどのごへんじ)(一〇五)=一篇。
文永九年五月二日付、佐渡からの書状。
真蹟は伝わらない。
本抄は煩悩即菩提の法門が説かれていることから「煩悩即菩提鈔」(あるいは他受用御書)とも呼ばれる。
内容は、法華経を弘めて大難に遭うのは仏果を得る所以であるから悦ばしく思うと述べ、今、自分日蓮が弘通する法門は天台・伝教より一層立ち入った「本門寿量品の三大事」であると、本化所弘の法を示され、妙法五字は十方三世の諸仏の智慧を収めた深い法門であり、諸法実相・十如是の真如を顕現した法体であると述べられている。
そして境智二法、生死即涅槃、煩悩即菩提の法門を説き、今の受難は過去の謗法罪によるとしている。
四条氏が日蓮聖人を助けることは法師品に説く「優婆塞」に他ならず、自分も「如来使」法華経の行者であると師弟の因縁を述べ、四条氏に地涌の流類としての使命を自覚して強盛の信心を貫徹するよう勧誡されている。
(七)四条金吾殿御返事(しじようきんごどのごへんじ)(一一二)=一篇。
文永九年九月、佐渡からの書状。
真蹟は伝わらないが、日興写本が北山本門寺に現存する。
「梵音声御書」ともいう。
本抄は、四条氏が亡母の三回忌追善のため、使いを遣して種々の供養の品々を佐渡まで届けた志を感謝し称賛した書状。
内容はまず仏法の流布は国王の信仰によるとし、国王の善悪は一国の運命を左右することを示し、謗法が盛んとなれば国は亡びることを指摘している。日蓮聖人はこの謗法を折伏するがゆえに大難に遭うと述べる。
そして、四条氏が悲母三回忌の追善供養にと供養の品々を献じた志に感謝し、如来の使たる聖人を供養する徳は、無数の仏を供養するに勝ると称賛している。
更に、法華経は三仏の証明を得た最勝真実の教であり、釈尊の梵音声をそのまま文字に写したのであるから、さながら生身の釈尊であると、法仏一体の理を説いて、法華経による悲母の菩提供養を感賞されている。
(八)経王御前御返事(きようおうごぜごへんじ)(一一四)=一篇。
文永九年、佐渡よりの書状。
真蹟は伝わらない。
本抄は経王御前誕生の報を聞いて、法華経妙荘厳王品の浄蔵・浄眼の二王子の故事を引き、祝福している。そして、世の治乱は法華経を用いるか否かによると、謗法亡国・後生堕獄を説示し、法華経の行者は勿論、法華経を謗る者もそれが縁となって無量劫の後に成仏することが説かれている。
(九)経王殿御返事(きようおうどのごへんじ)(一二八)=一篇。
文永一〇年(一二七三)八月一五日、佐渡よりの書状。
真蹟は伝わらない。
本抄は佐渡配流中の日蓮聖人の下へ四条氏が使者を遣わして供養の品々を届け、併せて経王御前の病気平癒の祈念を依頼したことに対する返書である。
まず使者をもっての供養を謝し、次に経王御前の祈願を報告している。授与する守本尊は、正像未弘の本尊であり、日蓮聖人が法華経の肝心を精魂込めてしたためたものであるから、これを肌身離さず信心すれば、必ず仏菩薩諸天善神の加護によって、災を福と転じ、現当二世の所願は成弁すと示し、その功徳は偏えに強盛の信心によると励まされている。
(一〇)呵責謗法滅罪鈔(かしやくほうぼうめつざいしよう)(一三七)=一篇。
文永一〇年、佐渡よりの書状、真蹟は伝わらない。
日蓮聖人が龍口法難から佐渡配流への内省の間に深刻な滅罪観を披瀝されていることは『転重軽受法門』『開目抄』『佐渡御書』等における内観の告白より知ることができる。
本抄にも受難と滅罪、上行の自覚の高潮を見出すことが出来る。
内容は五段に分けて見ることができる。
第一には謗法呵責・逆化折状の化導のために伊豆・佐渡の流罪等諸難に遭うが、却って自身の無始の謗法罪を消滅し、衆生救済の所願を満足することが出来ると、値難法悦の情を述べ、併せて四条氏夫妻の深い信仰を称えている。
第二に妙法五字は迹化・他方の菩薩に付嘱せず、十神力を現じて特に本化地涌の菩薩に付嘱されたことを明かし、この五字の弘通の時は今時末法であり、前代未有の災夭は正しく本化出現の瑞相で、日蓮聖人自らその人なりと宣明する。
第三に正嘉以来の災難は謗法亡国の凶兆であると同時に、本法広布の瑞相であると述べる。
第四に四条氏の悲母孝養の志を称賛し、兄弟姉妹の和を教訓し、最後に四条氏の厚志に感謝の意を述べて結ばれている。
(一二)主君耳入此法門免与同罪事(しゆくんににゆうしほうもんめんよどうざいじ)(一五二)=一篇。
文永一一年(一二七四)九月一六日、身延からの書状。
本抄は「主君の耳に此の法門を入れ与同罪を免れる事」と読み「主君鈔」「主君耳入鈔」「免与同罪抄」等と略称される。
真蹟は伝わらない。
奥書に月日のみ記されているため系年に異説があり、「日奥目録」「境妙庵目録」は建治三年とし、「日諦目録」「日明目録」「遺文録」は文永一一年としている。
今は『縮遺』に従い文永一一年、日蓮聖人五三歳の撰述とする。
この年五月、日蓮聖人は第三国諫を果して鎌倉を去り身延に入られた。
鎌倉に在った四条氏は、自ら信ずる法華経を主君に勧めなければ、主君の謗法の責めを自ら分たねばならぬと考え、主君江馬光時に法華経の法門を説いた。
しかし光時はそれを拒否したので、四条氏は主君諫言の始終を日蓮聖人に報告、それに対する返事が本抄である。
不殺生戒すら大事のためには破ることもある。
まして大善のためには、たとえ主君の意に逆っても勧めるのが臣下たるものの務めである。
今、四条氏はその大事を敢行して与同罪を免れたのであるから、今後は自重して同僚の怨嫉に乗ぜられぬよう身辺を用心し、酒宴等は慎むようにと懇切な注意を訓戒されている。
(一三)四条金吾殿女房御返事(しじようきんごどのにようぼうごへんじ)(一六〇)=一篇。
文永一二年(一二七五)正月二七日、身延から四条氏夫人日眼女に送られた書状。
真蹟断片が丹後妙円寺他に散在。
本抄の系年について「境妙庵目録」は弘安二年(一二七九)とし「日奥目録」は年代未詳とする。
今は『縮遺』に従い、文永一二年とする。
本抄は四条氏夫人日眼女が、三三歳の厄年に当って供養の品々を捧げたのに対し、法華経の功徳の甚深なることを説いて信仰を励まし、厄年の恐るるに足らぬことを訓諭したものである。
その内容は冒頭に真言宗邪義を評破し、次いで法華経薬王品の十喩を引いて、法華最勝と法華経受持者の最勝を説き、更に一切経中に女人成仏を許すのは法華経のみであることを示す。女人救済の大教たる法華経を持つならば三三の厄は転じて福となり、法華経を信ずる日眼女は仏在世の龍女に比すべきと称え、夫婦一体の信仰を貫くよう教示している。
(一四)瑞相御書(ずいそうごしよ)(一六六)=一篇。
文永一二年二月、身延からの書状。
真蹟身延曽存。
本抄は末尾の文を闕くが、古来より四条氏宛とされている。
本抄は仏法興隆の瑞相を詳説されたもので、法華経の教理から瑞相を説明し、末法に日蓮聖人弘通の妙法が広布することを示している。
即ち、まず法華経説時の瑞相について依正不二の原理から説明し、人の身心と天変地夭とは深い関係があることを提示される。
次に爾前諸経と法華経迹門の瑞相の勝劣を論じ、本門の宝塔涌出・地涌出現の二瑞は迹門より勝れ、更に神力品の十神力はこの二瑞よりも勝れた仏在世の最勝瑞であるのみでなく、末法に妙法蓮華経の流布する大祥瑞であると明かされる。
続けて天変地夭外冦等の国難は謗法によって起ると論じ、日蓮聖人がその謗法を呵責するから、日本国に前代未聞の災夭を激発すると述べ、『守護経』を引いて謗法亡国を警告する。念仏者とそれ以上の大謗法の真言宗が亡国の元凶となると論断し、真言亡国は自身の一大事の法門であると結ばれている。
本抄では正嘉・文永の天変地夭は日蓮聖人の折伏化導によって生じた大悪心の招くところであるから、即ちこの天変地夭は未曽有の大法弘通の祥瑞であるとされるのである。
(一五)四条金吾殿御返事(しじようきんごどのごへんじ)(一六九)=一篇。
文永一二年三月六日、身延からの書状。
真蹟は伝わらない。
「此経難持鈔」の異称がある。
本抄は四条氏が信仰上の動揺を来し、法華信仰者の「現世安穏後生善処」に疑いを懐いたことが、弁阿闍梨日昭によって身延の日蓮聖人へ報告されたことに対し、本抄を四条氏に送り、信仰を導かれた書である。
法華経は難信難解の経であるから、この経を受持する者は初めから受難の覚悟を持たなければならない。
その持ち難い経を持ち、忍び難い難を忍んで、初めて仏果が得られる。
今はその試錬の過程であるから、一層信力を倍加して、大難に屈することのない不動の信心に安住するよう、此経難持の覚悟を教誡されたものである。
(一六)王舎城事(おうしやじようじ)(一七三)=一篇。
文永一二年四月一二日、身延からの書状。
真蹟身延久遠寺曽存。
本抄の系年について「日奥目録」「境妙庵目録」は弘安元年としている。
本抄は四条氏が鎌倉の極楽寺及び御所の焼失を報告したことに対する返事である。
内容は火災について王舎城不焼の故事を引き、鎌倉の二所焼失は極楽寺良観の謗法によるとし、謗国日本の果報の尽きる前兆と指摘する。
そして良観が自火を出して御所まで焼失し、また現世には国を焼き、未来は無間地獄に堕ちて業火に焼かれるから、両火房の名が相応しいと、良観の邪義を論談する。
さらに夫人の信仰を激励し、最後に法華経に敵対する者なら、たとえ父母、主君であろうとも随うべきでない、と法華経信仰者の真実の孝養のあり方を教示している。
(一七)四条金吾殿御返事(しじようきんごどのごへんじ)(一八八)=一篇。
建治元年(一二七五)七月二二日、身延からの書状。
真蹟は伝わらない。
本抄は四条氏が他宗の僧と諸法実相の法門について論争したとの報に接し、日蓮聖人は諸法実相の法の真実義を教示し、当時の叡山天台宗が法華開会の意義を誤って権実雑乱の邪義に陥っていることを指摘し、併せて以後の法論に臨む時の心得を諭されたものである。
(一八)四条金吾殿御返事(しじようきんごどのごへんじ)(二一九)=一篇。
建治二年(一二七六)六月二七日、身延からの書状。
真蹟は伝わらない。
本抄は四条氏が主君江馬氏との間の信仰上の問題から、同僚の怨嫉迫害を受け苦境にあったとき、日蓮聖人は四条氏を慰諭し、苦楽を超越して、常に南無妙法蓮華経と唱えて世間の迫害など恐れず、信仰に安住せよと、法華経受持の信念を強調し激励された書である。
(一九)四条金吾釈迦仏供養事(しじようきんごしやかぶつくようじ)(二二〇)=一篇。
建治二年七月一五日、身延からの書状。
真蹟身延久遠寺曽存、真蹟断簡一紙鎌倉妙本寺蔵。
系年について「境妙庵目録」は文永一一年とし「日奥目録」は建治三年としている。
本抄は四条氏が木像の釈迦仏一体を造立し、その開眼供養をお願いし、近況を報告してきたことに対する訓誡の返事である。
本抄は四段に分つことが出来る。
最初に釈迦仏造立開眼について、五眼・三身を説き、開眼供養は法華経に限る旨を述べ、進んで法華経の一念三千の法門に基づいて草木成仏の理を説示し、仏像に魂魄を入れるのは法華経の力によることを説く。
第二に四条氏が毎年四月から七月まで九旬の間、日天子を供養することについて、釈尊と日天子と聖人との関係を説いて、日天子の利生を示して加護のあるべきことを述べ、第三に四条氏の父母孝養の志厚きを称歎している。
第四に四条氏が主君の不興を買い、家臣を辞めたい心境を吐露したのに対し、聖人はその不可なることを説いて、四条氏の外護の功徳も源は主君江馬氏の恩恵より出たるものなれば、決して主君を捨離してはならないと教諭されている。入道生活も四条氏の憧れるほど浄いものでないことを指摘して自重を促し、法華経の行者としての忍受生活の精神を示して、日常処世の用心について細やかな注意を与えられている。
(二〇)四条金吾殿御返事(しじようきんごどのごへんじ)(二二八)=一篇。
建治二年九月六日、身延よりの書状。
真蹟は伝わらない。
本抄は冒頭の文に因んで「有智弘正法事」とも呼ばれる。
四条氏が主君江馬光時に法華信仰を勧めた結果、主君の不興を買い、これに乗じて領地替の内命があった。
これらの情勢を四条氏が身延の日蓮聖人へ報告したのに対し、善処すべき態度と覚悟を教訓されたのが本書である。
即ち日蓮聖人は、師檀不離の関係を釈尊の例を引いて説明し、末法に正法を弘める智者としての自分と、これを助ける檀那としての四條氏を不離とし、四条氏の危害が自らの命を断つ所以であるとしている。四条氏に対しては、必ず諸天の加護があると安心を与え、蒙古の襲来によって予言が実現すれば、世間の日蓮一門に対する態度も変り、江馬氏の心も和ぐであろうから、受難の日を忍受せよと励まされている。
最後に領地替について主君に答えるべき要旨を指示されている。
(二一)四条金吾殿御返事(しじようきんごどのごへんじ)(二四五)=一篇。
建治三年身延からの書状。
真蹟身延久遠寺曽存、真蹟断簡京都妙覚寺蔵。
本抄は文中に賢人は八風(利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽)に犯されぬものであると教示しているところから、古来より「八風抄」と称されている。
建治二年九月、越後へ領地替の内命があったのに対し、四条氏は日蓮聖人の指導に従って受諾せず、鎌倉を離れることを拒んだ。
今度は近習の人から主命軽視、領地没収の声があり、四条氏は窮地に陥り、訴訟に持ちこまんとの意を報じた。
日蓮聖人は訴訟に持ちこむことを止め、賢人は八風に犯されない者をいうと、受難の四条氏に慎むべき心構えを教え、仏天の加護を祈請せんと告げられている。
そして諸天の加護を祈るにも、真言等の邪法によれば却って身を亡す理由を例を挙げて説示し、暗に蒙古調伏を真言に命ずるならば亡国となることを指摘し、専ら法華の正法によるべきことを強調している。
更に領地替の命に従い、鎌倉にあって今までより出仕する回数を控えているならば、やがて好転するであろうと慰めている。
(二二)四条金吾殿御返事(しじようきんごどのごへんじ)(二五〇)=一篇。
建治三年七月、身延よりの書状。
真蹟断簡大分常妙寺他に散在。
本抄は「為法花経不可惜所領事」「不可惜所領事」とも称されている。
この年六月九日、鎌倉桑谷において門下の三位房と龍象房との法論があり、四条氏もその席に在ったことから、兵杖を帯して乱入し法座を乱したと讒奏された。
そのために主君江馬氏より法華信仰を捨てる起請文を書けと詰問された四条氏は、たとえ所領を没収されても書かないと拒絶し、直ちに身延の日蓮聖人にこのことを報じ指示を仰いだ。
日蓮聖人は四条氏の不動の信仰を称揚して「上行菩薩貴辺の御身に入りかはらせ給へるか」と述べ、詰問状に対する陳状一篇(「頼基陳状」がそれである)を代作して使者に持たせて鎌倉へ送り、併せて陳状を提出する際の用意・決心等について細かな注意を与えられている。
鎌倉の人々から「法華宗の四条金吾」と謳われた四条氏が退転するか否かは、日蓮聖人門下に大動揺を来す一大事件であった。
その時、たとえ所領を没収されようとも法華経は捨てないとの、四条氏の金剛不壊の信念に基づく誓状を見た日蓮聖人の驚きと喜びが、切々たる温情籠もる本抄となったのである。
(二三)四条金吾殿御返事(しじようきんごどのごへんじ)(二五七)=一篇。
建治三年身延からの書状。
真蹟は伝わらない。
本抄には「告誡書」「大法東漸書」「仏法王法勝負鈔」の異称がある。
四条氏は陳状を容易に提出せず、一方江馬氏は起請文を提出させて一件落着せしめようとした。
四条氏は起請文の提出を断固拒絶し続け、情勢を身延へ報告した。
日蓮聖人は四条氏の決意の固いことを喜び、仏法の勝負、即ち道理と非道と対立しても、正義が最後に勝つことを中国・日本の実例を挙げて説明し、正法に背く者には厳罰があると述べ、所信を貫徹すべきことを激励し、日常生活にも細心の注意を払うよう教諭されている。
(二四)四条金吾殿御返事(しじようきんごどのごへんじ)(二五八)=一篇。
建治三年身延からの書状。
真蹟は伝わらない。
本抄は法華経の本迹二門と題目との法義の浅深について略釈されたもので、文底観心の妙法五字が末法の時機相応の法であると述べられている。
(二六)四条金吾殿御書(しじようきんごどのごしよ)(二七三)=一篇。
建治四年(一二七八)正月二五日、身延からの書状。
真蹟は伝わらないが、日意の真蹟対照本が京都妙伝寺に現存。
四条氏と主君江馬氏の問題を憂慮されていた日蓮聖人は、四条氏から多年に亘った主君の勘気も解けて、江馬四郎親時の出仕に供しているとの報告に接し、更に円教房から四条氏の出仕の風貌が目立っているとの噂を耳にして、喜びの情を述べると共に、今後の注意を与えられたのが本抄である。
即ち江馬氏の勘気が解けたことは偏えに諸天の加護、法華経信仰の賜であるとし、一層の信心を励まされている。
次いで孔子や周公旦の例を引いて、出仕の際の注意を諄々と教諭し、弟妹への親身の情を説き、最後に京都・鎌倉の御所の焼失は真言の悪法を用い、法華経を信じないことによる天罰であると述べられている。
(二七)檀越某御返事(だんのつぼうごへんじ)(二八三)=一篇。
弘安元年(一二七八)四月一一日、身延からの書状。
真蹟中山法華経寺蔵(重要文化財)。
本書の系年については「境妙庵目録」は文永九年だが、「日諦目録」はじめ「日明目録」「日騰目録」「遺文録」「縮遺」「山川智応」「浅井要麟」「対照録」等も弘安元年としている。
この頃、日蓮聖人を三度び流罪に処せんとする動きがあったらしく、鎌倉の某氏からその情報が身延に知らされた。
これに対して、むしろそれが実現して法華経の故に身を捨てること、かの雪山童子・不軽菩薩の跡を踏みたいものである、徒らに疫病や老死に斃れるよりも法華経のために我身を捧げることの悦びを披瀝し、某氏に対し不退転の決意で主君に仕えるよう申し送っている。
「御みやづかいを法華経とをぼしめせ」の文は、信仰生活と日常社会生活の一致を教えた文で、某氏の希望を制止されたようである。
なお某氏とは古来より四条金吾と伝えられている。
(二八)中務左衛門尉殿御返事(なかつかささえもんのじようどのごへんじ)(二九五)=一篇。
弘安元年六月二六日、身延からの書状。
真蹟京都立本寺蔵。
「二病抄」ともいう。
身延の日蓮聖人は前年の暮れから病床にあり、四条氏は自ら調剤した薬を送り届けた。
それに対する礼状である。
内容は初めに人の病気には身の病と心の病の二種があり、心の病は法華経でなければ治療しえないことを述べ、近年の疫病は謗法の心の病によって起ったのであるから、法華経でなくては退治し難いことを説く。
そして昨年来の下痢が四条氏の投薬によって治ったことを喜び、地涌の菩薩が妙法五字の良薬を授けられたのであろうと感謝されている。
(二九)四条金吾殿御返事(しじようきんごどのごへんじ)(三一二)=一篇。
弘安元年一〇月、身延からの書状。
真蹟は伝わらない。
「所領書」ともいう。
四条氏は、主君江馬氏より改めて三箇郷の領地を給わったことを身延の日蓮聖人に報じた。
この知らせを聞いて信心堅固の賜によると喜ばれ、ますます強い信仰を持ち続けるよう教誡されている。
最後に所領のことを喜ぶのは物質的欲望のようであるが、法華経の教は欲望を離れずして仏に成る道であると、煩悩即菩提の法門が説かれている。
(三〇)不孝御書(ふこうごしよ)(三一三)=一篇。
弘安元年、身延からの書状。
真蹟断簡京都妙覚寺蔵。
本抄は『定本遺文』編集の際、真蹟新加として載録したが、その後立正安国会の調査によって「陰徳陽報御書」(三三一)の前、第一〇紙であることが判明した。
よって本抄は「陰徳陽報御書」とし、系年も弘安二年四月二三日とする。
(三一)四条金吾殿御返事(しじようきんごどのごへんじ)(三一六)=一篇。
弘安元年閏一〇月二二日、身延からの書状。
真蹟は伝わらない。
文中に引く『弘決』の文から「必假心固神守則強御書」の異称がある。
四条氏の所領信濃より種々の物が送られてきた。
またこの月であったか、四条氏は身延の聖人を訪れ、病を見舞い看護投薬治療して鎌倉に帰った。
これに対する礼状で、まず病の平癒を報じて感謝し、四条氏の帰途を案じ、これからはめったなことでは身延に来ないようにと申し送り、供回り、警備、自身の警戒を怠らぬよう細心に注意すべきを諭し、『弘決』の「必ず心の固きによりて神の守り則ち強し」の文を引いて、法華経の信心堅固なれば諸天の加護を受け大難も免れると教戒している。
(三二)日眼女釈迦仏供養(にちげんによしやかぶつくようじ)(三二七)=一篇。
弘安二年二月二日、身延からの書状。
真蹟は身延久遠寺曽存。
四条氏夫人日眼女は三七歳の厄年に当って、教主釈尊の木像一体を造立し、除災のための供養を日蓮聖人の許へ捧げた。
これに対する返書である。
釈迦仏造立の功徳の甚大なることを説き、日眼女が現世安穏にして後生には必ず仏に成ると説示して、その信仰生活を称揚されている。
(三三)陰徳陽報御書(いんとくようほうごしよ)(三三一)=一篇。
弘安二年四月二三日、身延からの書状。
真蹟断簡二紙京都妙顕寺蔵。
本抄は全一二紙の中、前文の四分の三を欠いている。
内容は主君江馬氏の勘気を受けた四条氏が、日蓮聖人の指示通りに実行して主君の信用を回復したのに対し、「陰徳あれば陽報あり」の理を示して喜ばれ、更に未来成仏の大果報も疑いないと述べ、法門のことについては自重するよう諭されている。前出(三〇)参照。
(三四)四条金吾殿御返事(しじようきんごどのごへんじ)(三四〇)=一篇。
弘安二年九月一五日、身延からの書状。
真蹟断簡が身延久遠寺曽存。
「怨敵大陣既破事」の異称がある。
本抄の系年を「縮遺」は弘安元年とするが、巻末の「大進阿闍梨の死去の事」の記述から、熱原法難後の弘安二年とする。
久しく主君の勘気を蒙っていた四条氏が、迫害に耐え遂に主君の信用を回復し、再び領地を給わったと報じてきたことに対する返事である。
日蓮聖人は四条氏の信用回復は法華信仰の結果であると、その信仰を激励し、自身の滅後末法の導師、如来使としての立場を宣明し、信順し供養する四条氏の未来成仏は疑いないと教示されている。
巻末に大進阿闍梨の死去等の近況を述べ、自身の病はすべて四条氏に任せると、医術に明るい四条氏への信頼感を示されている。
(三五)四条金吾殿御返事(しじようきんごどのごへんじ)(三四七)=一篇。
弘安二年一〇月二三日、身延からの書状。
真蹟は伝わらない。
「剣形抄」の異称がある。
四条氏が仇敵に襲われたが、危く難を脱れたことを報告して来たことへの返書である。
日蓮聖人は四条氏が法敵に襲われながら日頃の用心と法華信仰の強盛なるによって、無事に難を脱れたことを喜ばれ、法華経の行者を諸天善神、殊に摩利支天が守護することを説き明かし、いよいよ強盛の大信力を出すように信心を激励し、いかなる兵法よりも法華信仰の兵法を用いるよう教示している。
(三六)四条金吾殿御返事(しじようきんごどのごへんじ)(三八四)=一篇。
弘安三年一〇月八日、身延からの書状。
真蹟は伝わらない。
「殿岡事」の異称がある。
四条氏がその所領、信州の殿岡から米を供養したのに対する返書である。
日蓮聖人は供養に対する感謝の辞を述べ、龍口法難以来、常に外護し来った四条氏の金剛信を称え、遥か佐渡・身延をたびたび来訪した厚志を謝し、自身の法華弘通による忍難慈勝と身延の霊山なることを説き示して、罪障消滅のため信心に励むよう教訓されている。
(三七)四条金吾許御文(しじようきんごがりおんふみ)(三九二)=一篇。
弘安三年一二月一六日、身延からの書状。
真蹟は伝わらない。
「八幡抄」の異称がある。
四条氏夫人から白小袖と綿が供養として捧げられたことに対する返書で、寒気厳しい山中での生活に何よりの供養であると厚志を感謝し、八幡大菩薩について重要な法門を記している。
即ち八幡宮の焼失によせて、八幡大菩薩の本地は釈尊であることを示し、神は正直の頭に宿るが日本国の人々が正法を信ぜず不正直であるから、栖む所が無く宝殿を焼いて天に昇ったのであると、神天上法門を説き、法華経の行者を必ず守護するのであるから、八幡大菩薩は身延山にこそ住むであろうと説いている。
(三八)四条金吾殿御返事(しじようきんごどのごへんじ)(四二四)=一篇。
弘安五年一月七日、身延よりの書状。
真蹟断簡高知要法寺蔵。
「八日講御書」「八日講抄」の異称がある。
新春の慶びを述べ、四条氏らが八日講を修していることを称歎された書状である。
即ち念仏・真言の流行と共に釈尊降誕の聖日たる八日が次第に忘れられようとしている時、四条氏らが法華経と釈尊とを信仰して、八日の聖日に集って供養を捧げていることを喜ばれ称賛している。
《『遺文辞典』歴史篇「陰徳陽報御書」「呵責謗法滅罪鈔」「経王御前御返事」「経王殿御返事」「四条金吾釈迦仏供養事」「四条金吾殿御書」「四条金吾殿御消息」「四条金吾殿御返事」「四条金吾女房御書」「四条金吾殿女房御返事」「瑞相御書」「崇峻天皇御書」「檀越某御返事」「月満御前御書」「主君耳入此法門免与同罪事」「同生同名御書」「中務左衛門尉殿御返事」「日眼女釈迦仏供養」「不孝御書」「法華行者値難事」の項》
(小松邦彰)
【補記】
四条賜書中(一三)・(一六)・(二一)・(三二)・(三四)各書の系年については検考が深められ『定本遺文』推定説の再考察が待たれている。
図版