池上賜書
池上賜書
いけがみししょ
池上右衛門大夫志宗仲と同じく兵衛志宗長の兄弟へ与えられた書簡をいい、『定本遺文』第三巻の「対告別消息索引」によると、一七通に達する。
父を左衛門尉康光といい、下総国能手郷印東次郎祐昭の女を娶ってこの兄弟を生んだ。従ってこの二人は聖人門下の長老日昭には俗甥にあたる。
池上家所伝によると宗仲は幕府の作事奉行を勤めていたというが『八幡宮造営事』なる遺文はそのことを証明している。
康元の頃、兄弟は鎌倉にあって四条・荏原・進士等の諸氏と前後して聖人に帰依したが、父康光は極楽寺良観の熱心な信者であったから兄弟の法華信仰を喜ばず、遂に文永一二年(一二七五)春、兄弟を威圧して法華信仰を捨てよと迫った。しかし兄弟は応じなかったので、兄宗仲を勘当してしまった。
池上氏への賜書は父との関係、信仰の取捨に悩む兄弟への懇切な教導をもって貫かれている。
(一)兄弟鈔(きょうだいしょう)(一七四) 文永一二年四月一六日付、聖人五四歳。
真蹟二六紙一巻、池上本門寺蔵(重要文化財)。
ただし初の三紙および第一四-六の三紙、および第三三紙以下は欠失。
真蹟断片二紙、小室妙法寺蔵、断片一紙、池上本門寺蔵。
身延から宗仲にあて別しては宗長、かねて宗仲女房・宗長女房あて。
宗仲は二度まで父に勘当されたが、これはその最初のときの御教訓である。
真蹟の漢字の部分には多く振りがなを加え、難解の辞句には解釈を付している。
それも女文字ではないかと思えるところもあり、筆跡も同一でないから、兄弟四人がつつましくこの書を反復熟読したであろうと想像される。
まず法華経は八万法蔵の肝心であり、舎利弗・目連等は三千塵点・五百塵点の昔にこの経に結縁したのに、悪友に欺かれてこの経を捨て、いまだ成仏できないでいる。
悪友とは第六天の魔王がその身に入った者共で、この魔王は智者の身に入って善人をたぼらかすばかりでなく「或は妻子の身に入って親や夫をたぼらかし、或は国王の身に入って法華経の行者ををどし、或は父母の身に入って孝養の子をせむる事あり」とてその例を示し、法華信仰を妨げる種々の迫害を忍んでこそ転重軽受できるのに「現世の軽苦忍びがたくて慈父のせめに随て存外に法華経をすつるよしあるならば、我身地獄に堕るのみならず、悲母も慈父も大阿鼻地獄に堕て、ともにかなしまん事疑なかるべし。大道心と申はこれなり」「がうじゃう(強情)にはがみをしてたゆむ心なかれ」「いろばしあしくして人にわらはれさせ給なよ」と信心を策励し、次に兄が勘当され、弟が家に居て家督を相続した件につき、伯夷・叔斉、応神天皇の二子、『西域記』の隠士と烈子等の物語を示して訓戒し、兄弟力を合せ、妻も合力して難局に対処せよ、また「一切はをやに随ふべきにてこそ候へども、仏になる道は随はぬが孝養の本にて候か」と仏教の大道を示して兄弟の歩むべき道を示される。
(二)兵衛志殿女房御書(ひょうえさかんどのにょうぼうごしょ)(二四〇) 建治三年(一二七七)三月二日、聖人五六歳。
真蹟なし、録外一〇巻所収。
弘安二年説、同三年説もある。
さる尼御前が身延へ参詣するに当り、兵衛志宗長の女房が馬を貸し与えた志を称歎してこの書を送り、汝は人間の上寿百二十歳を全うしてのち、霊山浄土へ参るとき、この馬は汝の乗馬となるであろうといわれている。
家庭問題には言及するところなし。
(三)兵衛志殿御返事(ひょうえさかんどのごへんじ)(二四八) 建治三年六月一八日。
聖人五六歳。
真蹟一紙、京都本圀寺蔵。
池上宗長の青鳧五貫文の供養に対して、一遍の題目をもってこたえられた礼状で、短文ながら心のこもった雄筆である。
真蹟は無年号であって『日諦目録』『日明目録』は弘安四年(一二八一)に係けているが『定本遺文』では花押の形態から建治三年におく。
家庭争議に関する言及はない。
(四)兵衛志殿御返事(ひょうえさかんどのごへんじ)(二五四) 建治三年八月二一日付、聖人五六歳。
真蹟四紙、京都立本寺蔵。
『縮刷遺文』は建治元年に係けている。
本書は鵞目二貫文送られたことに対する礼状であるが、中に兄弟同心にて今後も信仰あれとて「各々二人はすでにとこそ人はみしかども、かくいみじくみへさせ給は、ひとへに釈迦仏・法華経の御力なりとをぼすらむ(略)此より後もいかなる事ありとも、すこしもたゆむ事なかれ。いよいよはりあげてせむべし。たとい命に及とも、すこしもひるむ事なかれ」と激励している。
前年七月付の『弁殿御消息』には「えもんのたいう(父康光)どののかへせに(改心)の事」(定一一九〇頁)とあり、父親も宗仲勘当のことについて少しは改心した模様がみえるが、その後も相変わらずの事態が続いていたことが、この御消息でわかる。
(五)兵衛志殿御書(ひょうえさかんどのごしょ)(二六〇) 建治三年九月九日、聖人五六歳。
真蹟断片一紙五行、池上本門寺蔵。
日興写本が重須本門寺に伝存す。
系年について『日明目録』は建治二年、『境妙庵目録』は弘安二年、『日蓮大聖人真蹟対照録』は弘安元年とするが、鈴木一成著『日蓮聖人遺文の文献学的研究』では建治三年が妥当であると考証している。
宛名は書末によると、別しては弟の宗長へ、総じては門下一同へ送られている。
「久しくうけ給はり候はねば、よくおぼつかなく候。何よりもあはれにふしぎなる事は大夫志殿(兄)と殿との(協力の)御事ふしぎに候」とて末代にあって兄弟が心を一にして事に当ることを賞し「良観等の天魔法師らが親父左衛門大夫殿をすかし、わどのばら(和殿原)二人を失はんとせしに、殿の御心賢くして日蓮がいさめを御もちゐ有しゆへに、二のわ(輪)の車をたすけ二の足の人をになへるが如く、二の羽のとぶが如く、日月の一切衆生を助くるが如く、兄弟の御力にて親父を法華経に入れまいらせさせ給ぬる御計、偏に貴辺の御身にあり」と家に居て、親父と勘当された兄との仲を取りもった弟の信力を称える。
親父を法華に入信させたとあるから、兄の勘当も解かれたに違いない。
池上一家の宗教問題から、一転して真言宗の邪法の問題に入り、真言の祈祷法が国を亡ぼすわけを説き、更に今度の蒙古調伏は三度目の邪法祈祷であり、その上、教主釈尊の御使の日蓮を迫害するは亡国の行為であるとて、一門の人々を教誡されている。
(六)兵衛志殿女房御返事(ひょうえさかんどのにょうぼうごへんじ)(二六四) 建治三年一一月七日付。
真蹟なし、録外二三収。
宗長の女房が銅器二つを遙々身延の聖人に献じたのに対する礼状である。
家庭問題のことには触れられず。
(七)兵衛志殿御返事(ひょうえさかんどのごへんじ)(二六六) 建治三年一一月二〇日付。
真蹟一六紙完、但し第一一紙末尾三行欠失、京都妙覚寺蔵。
第一一紙末尾の二行は稲田海素氏蔵。
系年について文永一一年説(日明目録)、建治元年説(縮刷遺文)、同二年説(日諦目録)もあるが、筆跡・花押等から見ても建治三年説が妥当である。
同年九月九日付の書簡では、池上家の信仰上の衝突は父の改心によって平和に帰し、宗仲の勘当も許されたが、この頃「両火房(良観)は百万反の念仏をすすめ」(定一四〇五頁)たので、池上家の信仰上の衝突は再燃し「このたびゑもんの志どの(兄)かさねて親のかんだう(勘当)あり」(定一四〇二頁)。とかく恩愛の情に惹かれがちの弟の「ひやうへの志殿をぼつかなし」(同頁)「現前の計なれば親につき給はんずらむ」(定一四〇三頁)という気色が見えることが、身延へ参詣した女房の話でわかったので、特に消息して宗長を訓誡し激励されたのが本書である。
初めに世乱れた末法に三毒の酒に酔った君臣・父子・師弟が互いに背きあう中で「あしき事を諫めば孝養となる事」は前にも書き送った通りであるとは第一の訓誡。身延へ参詣した女房御前にもいうておいたが「今度はとのは一定をち給ぬとをぼうるなり(略)但だ地獄にて日蓮をうらみ給ふ事なかれ。しり候まじきなり。千年のかるかやも一時にはひ(灰)となる。百年の功も一言にやぶれ候は法のことわりなり」とは第二の訓誡。
「親につき給はんずらむ。ものぐるわしき人々はこれをほめ候べし」。なれども「せんずるところ、ひとすぢにをもひ切て、兄と同く仏道をなり(成)給へ、親父は妙荘厳王のごとし、兄弟は浄蔵・浄眼なるべし」とは第三の訓誡。
第四の訓誡はますます切実な語調となる。
「百に一、千に一にも日蓮が義につかんとをぼさば、親に向ていゐ切給へ。親なればいかにも順ひまいらせ候べきが、法華経の御かたきになり給へば、つきまいらせては不孝の身となりぬべく候へば、すてまいらせて兄につき候なり。兄をすてられ候わば兄と一同とをぼすべしと申切給へ。すこしもをそるる心なかれ」と。威儀を正し、尊敬の心をもって父を諫めることは子たるものの不可欠の孝養であり、父もまたこれによって成長する例は世間にも多い。
第五の訓誡は『法華経』『涅槃経』の文を挙げて『法華経』には値い難し、父母に背くとも『法華経』への信を貫くことこそ真の孝養である。
悉達太子が親に背いて出家し、仏になってのちまず父母を導いたのと同じであると。
第六に至って訓誡は激励へと移る。
「わどの、兄をすてて、あにがあとをゆづられたりとも、千万年のさかへ(栄)かたかるべし(略)よくよくをもひ切て一向に後世をたのまるべし」と。
訓誡・激励の情到り理尽し、第二の『兄弟鈔』とも見らるべきものである。
(八)兵衛志殿御返事(ひょうえさかんどのごへんじ)(二九一) 弘安元年五月頃、聖人五七歳。
真蹟八紙中末尾一紙欠、京都妙覚寺蔵。
第一・二紙に文字欠損の箇所がある。
本書は『縮刷遺文』第二続集に初めて収録さる。
日附・自署花押・宛名の部分が欠けているが、文初に「たうじはのうどき(農時)にて」とあるから、五月頃と推定。
『日蓮大聖人御真蹟対照録』は「弘安元年秋」とする。
前年一一月付の書簡では兄宗仲は再度の勘当を受けたが、兄弟善処の甲斐あって勘当も許され、親子三人女房達が一同に法華信仰に生きるに至ったことを喜んで遣わされた御消息である。
池上家からの懇ろな贈物に対する感謝に始まり、遠くは善友太子・悪友太子・近くは頼朝・義経兄弟の例を挙げて、宗長は信仰上の衝突に善処し、法華信仰と家庭の平和との両方を克ち得たことを称揚される。
末段に「とのの御子息等もすへの代はさかうべしとをぼせしめせ」とある通り、池上家は現在なお栄えている。
聖人は「やせやまいと申し、身もくるしく候へば事々申さず」という状態の中で「あまりにたうとくうれしき事なれば申す」とてこの書簡の筆を執られた。
聖人のお喜びの情がひしひしと迫る文面である。
(九)兵衛志殿御返事(ひょうえさかんどのごへんじ)(二九六) 弘安元年六月二六日付、真蹟一紙、福井県妙勧寺蔵。
系年について建治三年説(日明目録)・弘安二年説(境妙庵目録)・同三年説(日諦目録)等の異説があるが、同年月日の『中務左衛門尉殿御返事』に「日蓮下痢、去年十二月丗日事起り、今年六月三日・四日、日々に度をまし月々に倍増す。
定業かと存ずる処に貴辺の良薬を服してより已来、日々月々に減じて今百分の一となれり」(定一五二四頁)とあり、本文の「はらのけはさゑもん殿の御薬になをりて候」とあるのと合致することになり、花押の形態・筆蹟より見ても弘安元年を妥当とする。
本書は聖人の病状を伝聞した宗長が味噌一桶を送ったことに対する礼状で「又このみそをなめて、いよいよ心ちなをり候ぬ」とある。もって質素な身延の御生活思いやるべきである。
「あはれあはれ今年御つつがなき事をこそ法華経に申上まいらせ候へ」とは、家内一同の法華信仰の持続、家庭の平安の持続を祈られた言葉と拝察される。
(一〇)兵衛志殿御返事(ひょうえさかんどのごへんじ)(三一八) 弘安元年一一月二〇日付。
真蹟は全九紙のうち、第三紙が滋賀県大津本長寺、第四紙後半六行が京都本法寺、第五紙が兵庫県伊丹本泉寺、第六紙前半六行が京都本禅寺、第八・九紙が京都立本寺に現存す。
宗長が銭六貫文・白厚綿の小袖を供養したのに対し、身延の今年の稀れな酷寒の模様を叙して感謝の意を示されたものである。
「今年は子細候」とて、厳冬の状を「きんぺん一丁二丁のほどは、ゆき一丈・二丈・五尺等なり」と叙し、雪中山籠の人々の有様を「其身のいろ紅蓮大紅蓮のごとし。こへははは(波々)大ばば地獄にことならず」という。もって聖人当時の雪中生活を想像すべきである。
次に去年一二月より一年にわたる腹痛の状況が叙され、贈られた「兄弟二人のふたつの小袖、わた四十両をきて候が、なつのかたびらのやうにかろく候ぞ。ましてわたうすく、ただぬのものばかりのもの、をもひやらせ給へ」と喜ばれる。
次に聖人の庵室の「人はなき時は四十人、ある時は六十人」と混みあう模様を述べ「心にはしづかにあじち(庵室)むすびて、小法師と我身計、御経よみまいらせんとこそ存て候に」と所懐を述べられるところは、金陵に群衆する信徒を避けて天台山に閑居を求めた天台大師の故事を偲ばれてか。
最後に池上一家の家庭の平安を喜んでおられる。
(一一)孝子御書(こうしごしょ)(三一八) 弘安二年二月二一日付、聖人五八歳。
真蹟五紙のうち、一紙断片九行が石見恵珖寺、第四紙三行が京都頂妙寺、第四紙末尾三行・第五紙が福井県敦賀本妙寺に現存。
親父康光の死去を弔し、併せて池上兄弟が一心同体となって能く親父を法華経に導き、その孝養を全うしたことを賞揚されて弟の宗長に与えられた御書であるから、古来孝子御書と称される。
(一二)兵衛志殿女房御返事(ひょうえさかんどのにょうぼうごへんじ)(三五三) 弘安二年一一月二五日付。
「法華経の御宝前に云云」の言葉、花押等から鈴木一成『日蓮聖人遺文の文献学的研究』も弘安二年に係けるが、『日蓮大聖人御真蹟対照録』は弘安三年とする。
真蹟一紙、京都田中平兵衛氏蔵。
宗長の女房から片裏染めの絹布を供養されたに対する礼状。
(一三)右衛門太夫殿御返事(うえもんだゆうどのごへんじ)(三五五) 弘安二年一二月三日付。
真蹟なし。
『本満寺録外』収。
右衛門太夫志宗仲から消息並びに種々の品を送ってきたことに対する礼状。
「日蓮は上行菩薩の御使にも似たり」「上行菩薩の再誕の人」「貴辺も上行菩薩の化儀をたすくる人なるべし」とある。
(一四)両人御中御書(りょうにんおんちゅうごしよ)(三八五) 弘安三年一〇月二〇日付、聖人五九歳。
『縮刷遺文』は弘安二年とするが、花押は弘安三年末の形態である。
真蹟二紙完、京都妙顕寺蔵。
大国阿闍梨日朗・池上宗仲の両人に対し、弘安二年夏に死去した大進阿闍梨の住坊が今もって無住のままであることを叱責し、譲状の通りに弁阿闍梨日昭へ渡すようにと注意された御消息である。
(一五)大夫志殿御返事(たゆうさかんどのごへんじ)(三九六) 弘安三年に系年する。
『境妙庵目録』は弘安二年一一月とす。
真蹟五紙断片、京都妙覚寺・比企谷妙本寺・新曽妙顕寺・貞松蓮永寺・東京本妙寺に散在。
初め伝教大師は天台大師を如来使と見たと述べ、付法蔵の二十四人は法華経の行者に非ず、三論・法相・華厳・真言の祖師等も法華経の行者に非ず、天台大師のみ法華経の行者にして、一字一句一偈を持つ行者の供養に勝れたること五倍なりといわれる。
浅井要麟『日蓮聖人遺文全集』別巻では「天台大師を称揚せらるること法に過ぎ、聖人常途の立場と大に異るものがある」とて本書の成立を疑うが、本書は『境妙庵目録』の傍題に「大師講事」とあるが如く、大師講供養に対する返書であることを念頭に置かねばならない。
(一六)八幡宮造営事(はちまんぐうぞうえいのこと)(四〇五) 弘安四年五月二六日付、聖人六〇歳。
池上兄弟あて書簡。
真蹟は現存しないが、延山録外写本が現存し、『縮刷遺文』の続集に初めて収録さる。
冒頭の「此法門申候事すでに廿九年なり」「齢既に六十にみちぬ」また「去文永十一年四月十二日大風ふきて(略)又今年四月廿八日を迎て此風ふき来る」とあるより推して弘安四年は動かない。
初めに自身の病状を述べて「年々に衰病をこり候つれども、なのめにて候つるが、今年は正月より其気分出来して既に一期をわりになりぬべし」「此程、上下の人人御返事申事なし(略)しかりと申せども此事大事なれば苦を忍で申」とて、讒奏によって八幡宮造営の工事をはずされたことは却ってよかった、それをもって父子二代にわたって重恩を蒙った主君を怨むこと勿れと誡め、次に本地は阿弥陀仏といわれる八幡大菩薩の宮を造営する一方で、法華経の行者として念仏無間、その堂を焼きはらえ、念仏者の頚を切れと申すことは矛盾である。
「天かねて此事をしろしめすゆへに、御造営の大ばんしやう(番匠)をはづされたるにやあるらむ」と懇切な訓誡を垂れ、最後に「返返す穏便にして、あだみうらむ気色なくて、身をやつし、下人をもぐ(具)せず、よき馬にものらず、のこぎり・かなづち手にもち、こしにつけて、つねにえめ(笑)するがたにておわすべし」と、理至り情尽し肺腑に撤するものがある。
これ池上賜書中、兄弟に対する最後の訓誡である。
(一七)大夫志殿御返事(たゆうさかんどのごへんじ)(四一九) 弘安四年一二月一一日付。
真蹟なし、『本満寺録外』収。
聖人の病中を見舞って酒・みそ・わかめを供養した宗仲に対する礼状。
なお『大黒天神供養相承事』(続一九)・『兵衛志殿御返事』(続四一)があるが、昭和定本は偽書と判じて続篇に入れている。
故に今は割愛する。
池上兄弟と父康光との関係は、聖人も常々いわれる通り、まさに妙荘厳王本事品第二七における浄蔵・浄眼二子と妙荘厳王との関係を示す経文を現実に実践した好箇の実例であった。
父康光の死後、兄の大夫志宗仲が家督を継ぎ、兵衛志宗長の後裔は室町幕府の作事奉行として京都に移住したといわれている。
弘安五年九月一八日の午頃、宗仲の館に着かれ、一〇月一三日の辰の時ここで示寂されたことは余りにも有名である。
聖人最後御臨終の地をわが家に択ばれた池上兄弟の感激はいいしれぬものがあったであろう。
これも日頃から聖人に捧げた篤信の然らしめるところであったと考えられよう。
宗仲の館は今の池上本門寺である。
御葬送のときには宗仲は四条金吾と共に幡を捧げ、宗長は太刀を持している。
因みに池上家の記録によると、康光は建久元年(一一九〇)の生れであるから、逝去の弘安二年(一二七九)は九〇歳、宗仲は永仁元年(一二九三)七一歳没であるから、弘安二年は五七歳、聖人は五八歳である。
親子ともに年老いてのちの紛争であって、壮年の父と青年の子との争いではなかったのである。
《『日蓮聖人御遺文講義』一六、茂田井教亨『日蓮聖人の書簡』、同『日蓮書簡に聞く』》
(浅井円道)
【補記】(一)兄弟鈔(一七四)『昭和定本』は系年を文永一二年四月一六日とするが、建治二年とする有力な異説があり、従うべきである(『日諦目録』等古目録各本、鈴木一成『日蓮聖人遺文の文献学的研究』、『日蓮大聖人御真蹟対照録』、岡元錬城『日蓮聖人遺文研究』第一巻)。
同鈔の真蹟の漢字に付された振りがなは、後世のものとする見解もある。本状は日蓮聖人の教えの受容をめぐって長く続いた池上家父子葛藤事件を告げる第一信であったが、事件が信仰をめぐる親子間の家庭内相剋であり、かつそれが鎌倉仏教界の首魁である極楽寺良観が容喙しての難事件であったので複雑に展開したため、日蓮聖人の対応は非常な苦心を払い決意をこめるものであった。そのおもいは全篇にあふれていて圧倒的である。信仰の危機に対処する教導愛育の言葉、情愛の心を内在させての救済と激励の厳語など、長文の本書は日蓮聖人書簡の代表的雄篇である。
建治二年七月『弁殿御消息』に「えもんのたいうどののかへせにの事は、大進の阿闍梨のふみに候らん」とあるのは、従来は池上兄弟の父(左衛門大夫康光)の改心の模様を述べたものと理解されていたが、「かへせに」は替銭であり、宗仲からの送金受領のことは大進阿闍梨が書き送ったかの意に解すべきである。この時点で父の改心があったわけではない。ただ聖人は池上家の信仰問題についてさまざまに心を配り、弁殿(日昭)や大進阿闍梨などの高弟に指示を出していたことが本状より知られる。
(五)兵衛志殿御書(二六〇)は、札幌光徳寺所蔵の真蹟断片二行が確認されている。系年については、池上家争議解決後のものであるので、『日蓮大聖人御真蹟対照録』の弘安元年説によるべきである。
(七)兵衛志殿御返事(二六六)の解説中に、「同年(建治三年)九月九日付の書簡によれば」とあるのは、前記の理由で削除されるべきであろう。建治三年一一月二〇日付の本状は、兄再勘当の報いに接しての弟への最後通牒的檄文である。
(八)兵衛志殿御返事(二九一)系年について岡元錬城『日蓮聖人遺文研究』二巻は、弘安元年九月下旬説を提示している。
(一四)両人御中御書(三八五)系年について岡元錬城氏は熱原法難渦中に法難の対策を指示した書であるとして、弘安二年説を主張する。
(一五)大夫志殿御返事(三九六)系年について『日諦目録』は弘安三年、『対照録』は弘安三年一一月、『日明目録』『日騰目録』は弘安三年一二月、岡元錬城『日蓮聖人遺文研究』第二巻は弘安三年一一月二五日とする。
以上のほか、従来より著述として扱われ、対告者未詳とされてきた『神国王御書』(一六八)は、建治三年八月二一日付の池上宗仲あての消息であるとする岡元錬城氏の新説がある(『日蓮聖人遺文研究』二巻)。岡元氏は、『神国王御書』が宗仲再勘当の契機となったとする見解など、池上賜書理解の検討を提起している。
《岡元錬城『日蓮聖人遺文研究』第二巻、『遺文辞典』歴史篇「兄弟鈔」「兵衛志殿女房御書」「兵衛志殿御返事」「兵衛志殿御書」「孝子御書」「右衛門太夫殿御返事」「両人御中御書」「大夫志殿御返事」「八幡宮造営事」「神国王御書」の項》
(岡元錬城・西條義昌)
図版