妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

池上氏

いけがみし #3734

池上氏

いけがみし


日蓮聖人の大檀越の一人。
日蓮聖人の書状には、右衛門大夫志宗仲夫妻、弟の兵衛志宗長夫妻と、のちに信仰を改めて日蓮聖人に帰依した父左衛門大夫康光の五名がみられる。 池上宗仲・宗長の兄弟は早く聖人に帰依し、武蔵池上郷(東京都大田区)に住した武士。 宗仲は「散位 大中臣 宗仲」(池上本門祖師像胎内御遺骨唐金筒銘)とも名乗る地頭で、池上家の所伝によれば、幕府の作奉行であったという。
弘安四年(一二八一)五月二六日の池上兄弟宛『八宮造営』には、鶴岡八宮の「御造営の大ばんしゃう(番匠)をはづされたるにやあるらむ」(定一八六九頁)と、八宮の造営に大番匠の候補に当っていたのが、はずされていることが記されている。 一方、父池上康光は日蓮聖人が批判した忍性帰依し、子息宗仲・宗長は聖人に帰依したため、父と子の間に説信奉をめぐって対立が生じた。
文永一二年(一二七五)春、父康光は兄弟を威圧して改信を迫ったが、兄弟の信仰は強く、応じなかったので兄宗仲を勘当した。 聖人は直ちに書状を送り、「一切はをやに随うべきにてこそ候へども、仏になる道は随はぬが孝養の本にて候か」(定九二八頁)と、兄弟に法華信仰を貫徹することを示した。 『兄弟抄』である。 日蓮聖人にとって、親子のつながりよりも法華信仰の受・不受こそが問題であった。 世俗的養より宗教養こそ真の養であるとしたのである。 弟宗長も聖人檀越であったが、父と兄の間にあって、世俗的孝養と信仰を動揺した。 聖人は宗長の去就を気遣い、最後まで法華信仰を貫徹することを勧めた。この父子の対立は数年続き、この間父は宗仲の法華信仰をとがめて二勘当している。 しかし、兄弟力を合わせて父をいさめ、慰諭に努めたので、父康光はついに勘当を許すばかりでなく、自分もまた法華信仰に入った。
のち、聖人常陸の湯療養のため身延を出て、弘安五年(一二八二)九月一八日武蔵池上郷の池上宗仲の邸に着き、翌一〇月一三日、その邸で六一年の法華経弘通の生涯を終えた。 一〇月一四日の葬送には、宗仲はの奉持者として、宗長は御大刀の奉持者として葬列に加わっている。
その後、宗仲はその邸に日朗と協力して一宇を建立、更に聖人の七回忌に当る正応元年(一二八八)には聖人の坐像を造立して安置した。 今の池上本門寺がこれである。
《宮崎英修『日蓮とその弟子』、高木豊『日蓮とその門弟』》

【補記】池上父子の対立勘当件の発生年次は、そのことを告げる『兄弟抄』の系年認定によって移動する。記述の「文永一二年」とは、『定本遺文』の推定系年によってのものである。この系年は従来説であり鈴木一成の認定によるものであったが、鈴木はのち、江戸期以来最多の一説である建治二年と改正した。従って父子葛藤事件発生年次は建治二年である。《『遺文事典』歴史篇「池上右衛門大夫宗仲」の項、『日蓮辞典』「池上氏」の項、『昭和新修』別巻「池上宗仲宗長兄弟」の項、『日蓮聖人大事典』「日蓮聖人と四大檀越」の項、『国史大辞典』一巻「池上宗仲(いけがみむねなか)」の項、鈴木一成『日蓮聖人遺文の文献学的研究』、岡元錬城『日蓮聖人遺文研究』第一巻所収「日蓮聖人書状『兄弟抄』の研究」》

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