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本門寺(東京都大田区池上)

ほんもんじ #3508

本門寺(東京都大田区池上)

ほんもんじ

日蓮宗大本山。
東京都大田区に所在。「池上本門寺」は通称であったが、平成になってから正式名称となった。
山号は長栄山、旧称・大院。
日蓮聖人は弘安五年(一二八二)に持病を治療するため身延山を下り、南部実長の次子弥三郎実氏の所領内にある常陸国(茨城県)隠井の湯に赴く途中、病が悪化して同年九月一八日(一九日ともいう)に武蔵国千束郷池上村の檀越池上宗仲の邸に立寄った。
宗仲や弟子たちの厚い介抱にもかかわらず病勢はすすみ、遂に一〇月一三日ここで入滅する。
聖人入滅以前に既に池上氏邸内に本門寺が創建されていたとする説が古来一般化している。
本化別頭仏祖統紀』は聖人の佐渡赦免を慶祝して、文永一一年(一二七四)に池上氏が邸内に一宇を建立したという。
これに対し『難得意条々記』は聖人生前の建立道場四所の一宇として、建治二年(一二七六)創建説を挙げる。
寺伝では宗仲が父康光(弘安二年二月没)の死後、その供養のために邸内の高所に法華堂を建て、弘安五年(一二八二)九月に聖人が開堂供養を親修、山号寺号を付与されたとする。
いずれも確証のない説であり、信憑に多くの問題点を残す。
おそらく聖人入滅後に邸内にあった法華堂を祖滅の霊跡として拡張し、宗仲が日朗に付与して伽藍を構築したのではなかろうか(伝説では宗仲が法華経一部八巻の文字数に相当する六万九三八四坪の土地を寄進して境内としたという)。
当寺に安置する・重文の祖師像は、聖人七回忌に当る正応元年(一二八八)に日持らの手で造立されたもので、この像が等身大を上回る大きさであることからも、この頃には既にかなりの規模をもつ御影堂が存在したと考えられる。
また日朗の院号である大国院をそのまま当寺の院号にしていることも、実質的には日朗による開山寺であることを首肯させる。
以来日朗の弘法の本拠である比企谷妙本寺と両山一貫首制がしかれ、徳川家康が江戸(東京都)に入府するまでの間、貫首は比企谷に常住し、池上は大本行寺が管掌するようになる。

中世における本門寺は聖人入滅の霊場という権威をもって次第に多くの末寺を加え、日朗門流の伸長に伴って本寺的発展をとげる。
二世日朗、三世日輪が共に平賀郷(松戸市)に有縁の人であったため、この地に開創された本土寺とその檀越層をも教線に加え、朗門九鳳とよばれる日朗門下の俊英たちの活躍もあり、とりわけ日輪の兄日像は京都開教という大を成し遂げるなど、その発展ぶりは目覚しいものであった。
四世日山の代になると上総夷隅郡伊北庄の豪族狩野氏帰依によって同地に教線を拡げ、上田氏(埼玉県東松山)や蒲田氏(大田区蒲田)など有力武士団も檀越集団に加わって外護を加え、伽藍もますます整備されたようである。
室町期に当寺の本寺的基盤を確立した七世日寿、八世日調は共に狩野氏、九世日純は上田氏の出身と伝えられるのも、この間の情をよく物語っている。
近世に入ると一二世日惺が関白二条昭実の猶子なったことで紫衣の勅許をうけ、寺格が一段と高まった。
徳川康が江戸に入府すると関東における政教の中心地は鎌倉から江戸に移り、やがて江戸は日本の首府になる。
以後歴代の貫首は長い常住した比企谷妙本寺を離れて本門寺に住するようになった。
加藤清正は天正―慶長頃に堂宇の復興と寺域の整備に力をつくし、園城寺、金剛峯寺と共に日本三大堂とよばれる間口二五間、奥行二三間の祖師堂と正面の石段を造営したと伝えられる。
徳川康は慶長三年(一五九八)に寺領一〇〇石を寄せ、加賀(石川県)前田利家の側室寿福院も諸堂建立に外護を加え、二代将軍徳川秀忠の乳母岡部局は仁王門および五重塔を造立した。
ところが一五世日友の代、元和五年(一六一九)七月に火災に遭い、客殿・宝蔵・方丈・庫裡を焼失する。
一六世日樹は寛永六年(一六二九)一一月に祖師堂(大堂)・総門・仁王門を復旧し、掲額には当代一の名筆本阿弥光悦が筆をふるい、まさに聖人入滅の霊地にふさわしい大伽藍が整えられた。
翌七年にいわゆる身池対論とよばれる受・不受論争の事件が起り、幕府の公廷で身延側と対論の結果、日樹は不受派の頭目として邪義と裁決され信州(長野県)飯田に流となった。
この影響で一寺運は衰退したが、幕命でその後を継いだ心性院日遠は家康の側室で紀伊頼宣、水戸頼房の生母である養珠院お万の方の強力な庇護のもとに旧に倍する充実をとげ、名実ともに一宗の大本山として君臨するようになる。
三世日潤の代、宝永七年(一七一〇)にまたまた火災を起し、山門・五重塔を除いて祖師堂など諸堂をことごとく焼失した。
正徳二年(一七一二)にまず客殿、次いで享保期に至り八代将軍徳川吉宗の寄進で節倹という意味から従来より規模縮小の祖師堂と釈迦堂が建立された。
とくに法華信仰に熱心であった吉宗の室寛徳院と側室深徳院などの廟所が当寺に定められると、幕府は毎年米六〇〇俵を寄せて保護し、貫首新任の折には老中列座の前で拝命するという特別待遇をうけた。
これより先、元禄の頃には僧侶の教育機関である南谷檀林塔頭院家の照栄院に付設され、以後この学派は池上門流の法脈を形成し末寺支配にも積極的に干渉するようになる。
二四世日等は永代紫衣勅許の栄をうけて寺運は次第に上昇し、文化年(一八〇四-一七)には塔頭子院二四宇、末寺一五五ヵ寺を有する大寺院に発展する。

昭和二〇年(一九四五)戦災で五重塔・経蔵・宝塔・惣門を除くほとんど全山の建造物を焼失したが、幸いにも祖師像(国・重文)と聖人自筆消息などを含む古文書類が多少持ち出されて難を免れた。
昭和二三年以来復興を重ね、現在はほぼ完成に近づいている。
なお聖人入滅の忌日に毎年執行されるお会式の行事は、江戸期から当地最大の宗教的“祭り”として著名であり、いまも盛大を極め多くの女が参詣する。
《『本化別頭仏祖統紀』、『新編武蔵風土記稿』、『長栄山本門寺誌』、『池上本門寺史管見』、『大田区の寺院』、『池上本門寺』、『日蓮辞典』「本門寺」の項(1)、『日蓮聖人事蹟事典』(雄山閣)「東京」の項、『国史大辞典』一二巻「本門寺(東京)」の項
(新倉之)

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