大黒天
大黒天
だいこくてん
大黒天は大古久・大去垢とも書き、またMahākālaの音に従って麻訶迦羅という。
大黒天の出処、その形相や儀軌は諸書に説かれているが、
(一)『仁王経良賁疏』下には「大黒天神は闘戦の神也、もし彼の神を礼せば其威徳をまし事を挙げて皆勝る、故に嚮祀するなり、大黒天は常に夜間において林中を遊行す、大神力あり、諸の珍宝多く、隠形薬あり、長年薬あり、遊行して空に飛び諸幻術の薬を与へて貿易す、もし人往かんと欲せば陀羅尼を以て其身を加持して貿易す」と。
(二)『新訳仁王経下巻音義』には「摩訶、ここには大という、迦羅、ここには黒という。経に摩訶迦羅大黒天神というは唐梵雙挙するなり。この神、青黒雲の色にして寿無量歳なり、八臂、異杖を執り髑髏を貫穿し以て瓔珞となし大忿怒の形をなす」と。
(三)『南海寄帰伝』第一に「西方の諸大寺に悉く食厨の柱の側に、或は大庫門の前に木を彫って形を表す、或は二尺、三尺にして神王の状をなし、坐して金嚢を把り、さって小牀に居し一脚地に垂る。常に油をもって拭く黒色を形とす。号して摩訶迦羅という、即ち大黒神なり、(略)食時に至って厨家毎に香火をすすめば、所有の飲食随って前に列ならん」と。
(四)『阿娑縛抄』『覚禅抄』は「『調定図』青黒なり、三面六臂あり、右一手剣をとり前に横たふ、左一手剣叉を擬し、右次手、人髪の契をとり左手半両角をとり、次左右手、第三手象皮をとり覆背は張り、髑髏蛇等を以て瓔珞とし鐶釧冠餝す」。
『用心草』経異記第九曰く「摩訶迦羅髑髏を以て瓔珞となし、人肉を食とし、人皮を衣とし血を飲となす、手に刀、戟及毒蛇をもち、儛伏して火に入るごとに即ち炭を覆て行く」。
また
(五)『大黒天神法』には「大黒天神は大自在天・堅牢地天の化身なり。伽藍に之を安じ、毎日炊く飯の上分をこの天に供養す、夢中の語詞の中に誓て云、もし吾を伽藍に安置し日々に敬供せば、吾寺中に衆多の僧を住せしめ、毎日必ず千人の衆を養はん、乃至人宅も亦しかなり、もし人三年専心に吾に供せば吾必ずここに来り供人に世間富貴乃至官位爵禄を授与せん。吾が体は五尺もしは二尺、もしは二尺五寸に作り、亦えて之に通免す、膚色は悉く黒色に作り頭に烏帽子を冠らしむ、悉く黒色也、袴を着けしめ駈寨垂れず、狩衣を著けしめ裙短に袖細くす。右手は拳となして右腰に収めしめ、左手に大袋をもたしめ、背より肩上にかけしむ、その袋の色鼠毛色となす、其の垂下の程臀上に余る。かくの如く作りおわって大衆食居におり礼供せば、堂屋房舎必ず自然に栄え聚集湧出せん。大黒天神は胎蔵界、普印を用い三摩耶形剣、青色にして三面六臂、前左右手横に剣をとり、左手に人頭をとり、右手に羊牝をとる、次の左右は象皮を背後に張り髑髏をもって瓔珞となす(次に仁王経良賁疏、南海寄帰伝を引き)師云く此法は最極秘密の法也、室に入らず、いまし名簿なきの人には伝受すべからず、千金莫伝、努々」とある。
以上の経軌によれば大黒天は軍神・戦闘の神(仁王経良賁疏)、貿易神(仁王経良賁疏)、食厨神(南海寄帰伝・天神法)、富貴、爵禄神(天神法)、堂房、房舎守護神(天神法)、その形相は色は黒・青黒・青黒雲、体相は一面二臂、一面八臂、三面六臂、顔貌は忿怒、あるいは普通ないし峻厳な顔、丈は二尺ないし五尺、あるいは不定、執持物は髑髏をさした杖、また瓔珞その他に刀、戟、人頭、羊牝、象皮、異獣(以上亡臂、八臂)、大袋、金嚢のいずれかを左手に、右手は拳に握って右腰につける(二臂)。
このような異形の大黒天は我らの知っている福徳円満な笑っている相好とは全く異なっていて異種の天神のようであるが、実はこれが元来の大黒天であって、この姿態は少なくとも鎌倉期の中・後期ごろまでに見られる大黒像の姿である。
それゆえ、たとえば『阿娑縛抄』・『覚禅抄』にあげられている大黒像は顔の相について何らふれぬのに画くところの図像は忿怒相あるいは峻厳と普通の中間的相好となっているのである。
もって当時の相貌の一般的傾向が推察されえよう。
さて大黒天が笑顔のふくよかな円満相に変じて行くのは鎌倉末期から室町期にかけて造像されている例にその先駆が見え始め、室町期に入るや大国主の命の民族信仰と結びつき、夷(えびす)神と関連して福相となり左手に袋、右手に槌をもち米俵にのった姿になったように見られる。
室町中期のころになると大黒天の形相に忿怒・峻厳の相がなくなり、前期と比べればおおむね峻厳と普通の中間の相、そして室町末になると笑顔が一般の容貌となり江戸期の福々した円満相に移るのである。
次に台座は荷葉坐、米俵座が多く大黒天は立ち、あるいは腰をかけている。
米俵は二俵、三俵、五俵、あるいは六俵、九俵をつみ重ね、立像、据腰像で例えば六俵づみならば第一重三俵、第二重二俵をつみ、二俵の上に一俵を横において腰をかける。
また俵の正面は摩尼宝珠、摩尼槌、隠簑、隠笠が描かれていたものが、漸次に取りのぞかれて俵を二俵並べて立つ笑顔福相の大黒天が一般的形相となる。
さて日蓮聖人の大黒天信仰を物語る御書は富木常忍が戴いた『真間釈迦仏供養逐状』に「いつぞや大黒を供養して候いし、其後より世間なげかずしておわするか、此度は大海のしほの満るが如く月の満ずるがごとく」(定四五七頁)とある大黒天供養法を見るのみである。
このころ天台・真言で大黒天法が重んぜられていて流行していたことは『阿娑縛抄』『覚禅抄』によって知られ、聖人がこれら祈祷法の相伝をうけられたであろうことは他の修法相伝をうけておられることによって推察でき、富木常忍への供養法伝授もその一端を示されたものであるが、この外には大黒天信仰について述べられたものは見ることができぬ。
しかしこの大黒天信仰は日蓮宗の守護神となって入りこみ、室町期以降、京都日蓮宗諸寺須弥壇の中央に祭祀されるようになった。
このことは室町中期以降の絵曼荼羅の中央、鬼子母・十女を画く下に大黒天が位置しているのを見ても明らかである。
録外御書に『大黒天神相伝肝文』『大黒相承』『大黒潅頂口伝抄』等七種の相伝があげられているが、これらは皆、室町期、徳川期に成立したもので、本宗における大黒天信仰の盛儀を物語るものといえよう。
不受不施派では日奥の中に大黒天を感得し、二俵の俵の上に坐り左手に宝嚢、右手に経巻をもつ像いわゆる「日奥大黒像」が造立伝承され、本宗の祈祷法にも「大黒相承」が加えられている。
このようにして見ると大黒天信仰は本宗の中になお脈々として生き続けているといえる。
《長沼賢海「大黒の形容及信仰の変遷」『日本宗教史』、宮崎英修「大黒天信仰」『日蓮宗の守護神』、『遺文辞典』歴史篇「大黒天」の項、『日蓮辞典』『岩波仏教辞典』『国史大辞典』八巻「大黒天」の項》
(宮崎英修)