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大田賜書

おおたししょ #1362

大田賜書

おおたししょ

大田氏(太田とも表記)は、富木氏や曽谷氏と共に早くから日蓮聖人帰依していた下総における有力な檀越の一人である。
聖人在世中に入道し法名を「乗明法師妙日」と号し、館内の持仏堂を改めて本妙寺とした。
夫人もまた聖人帰依し、その子を聖人の室に投じて出家させた。 中山第二祖の法灯を継承した帥阿闍梨日高がそれである。
大田氏への賜書として『昭和定本日蓮聖人遺文』に収録されているものは十六書である(定二八六三頁)。 その中で真蹟の現存するものが九書ある。
賜書全体からみると大田氏は漢文体で高な内容の書状を送られていることから、かなりの識字能力と的知識を有していたと考えられる。 それは日蓮聖人の主著『観心本尊妙』を富木・曽谷両氏と共に送られていることからもその信解の程が知られるのである。 夫人もまた相当の養を有していたことは、即身成仏に関する書状を送られていることから知ることが出来る。
以下『定本遺文』の順序に従って解説する。
なお大田氏の詳細な伝記については →歴 おおたじょうみょう(大田乗明

(一)金吾殿御返(きんごどのごへんじ)(七三)=一篇。
文永七年(一二七〇)一一月二八日、聖人四九歳のの書状。
宛所はなく「与四条氏書」(祖書目次)とする説もあるが大田氏へ送られた書状とされている。また富木常忍説もある。
真蹟四紙中山法華経寺蔵(重要文化財)。 本書には「大師講事」「大師講御書」「法華捨身念願抄」などの異称がある。
系年について文永六年(境妙庵目録・新撰祖書・対照録)と文永七年(縮刷遺文)の二説がある。 これは「去年万々に申して」とある文を文字通りに「去年」と見るか「去る年」と見るかの解釈の相違による。
内容は、まず大師講への供養を謝し、本年の大師講が盛況であったことを報じ、次いで蒙古来牒による国内の動揺とその原因を述べ、聖人の覚悟が示されている。 ち文永五-六年の二回の蒙古国書の到来により『立正安国論』の予言の確実性が証明されたので、聖人は政界仏教界の代表者一一名に直諫状を呈出した(いわゆる「十一通御書」である)。 従って流か死かは一定である、と法華経のために身命を捨てる光栄を悦んで、自ら雪山童子薬王菩薩に擬して決死の覚悟を被瀝されている。
本抄は短篇ではあるが、全篇に再蒙古来牒により聖人の危機感は一層高まり、一日も早く謗法を折伏し終らねばならないという使命感と死身弘法の決意が漲っている。

(二)転重軽受法門(てんじゆうきようじゆほうもん)(八九)=一篇。
文永八年一〇月五日、相模依智から大田氏・蘇谷入道・金原法橋の三氏に送られた書状。
真蹟八紙中山法華経寺蔵(重要文化財)。 本書には「与三子書」「周梨槃特抄」等の異称がある。
本書は文永八年九月一二日の竜口法難の後、相模の依智に留められた聖人を三氏が慰問してきたことに対する返書で、法華経の行者の法難について三種の義が示されている。
第一に『涅槃経』の転重軽受の法門を引いて、現世の受難は過去の謗法罪を消滅するものであるから、諸難も法悦であると述べ、第二に付法蔵の人々の受難を例示して、善国摂受・悪国折伏の軌範を示し、末法悪国に折伏弘教を行ずる時に法難は必至であると死身弘法の覚悟を示し、第三に受難は法華経の「況滅度後」「数々見擯出」の仏の予言を実証するものであると述べ、法華経の行者の受難は即ち成仏の確証に他ならないと法華経色読、値難の法悦が述べられている。
本抄は聖人の滅罪観を知る上で必読の遺文である。

(三)異体同心(いたいどうしんじ)(一五〇)=一篇。
文永一一年八月六日付の書状。 真蹟は現存しない。
宛所は記されていないが、身延から大田氏へ送られた書状とされているが、高橋入道、南条氏とする説もある。
系年についても建治元年(堀日亨)、同三年(御書新目録)、弘安三年(日禘)、同四年(年譜攷異)等の諸説がある。
本書には「異体同心抄」「報大田氏書」の異称がある。
内容は供養に対する謝辞を述べ、異体同心の重要さを強調したもので、日蓮門下は異体同心であるから必ず広宣流布の願業は達成されると説き、身は異なっても心を一にしてに当たれば少数でも大を成就することが出来る、と僧俗の一致協力を励まされている。 また蒙古来襲の切迫した国内情勢と謗国日本の滅亡の危機を述べ法華信仰の堅持を勧奨されている。

(四)大田殿許御書(おおたどのがりごしよ)(一五九)=一篇。
文永一二年一月二四日、身延から送られた書状。
建治二年説(山川智応、対照録、岡元錬城)、建治三年説(山川智応、山上弘道)、弘安二年説(境妙庵目録)もある。
真蹟一〇紙中山法華経寺蔵(重要文化財)。 本書は「諸経中王」「真言宗僻見」の異称があるが、内容から後人が題したものである。
内容はまず新年の賀詞を述べ、次に世間・出世間ともに優劣を決定するのが定法であると述べて、法華・真言の勝劣を糺明する前提とする。 そして法華経と大日経、天台宗と真言宗の勝劣については、天台大師伝教大師ともに明示することなく、ために善無畏・弘法・慈覚・智証らの理同事勝の邪説が盛行したと述べて、真言の邪義を破折する。 更に経文を引いて法華経が諸経中の大王であることを明らかにし、法華経の行者もまた一切人中の最第一であると称揚して、門下一同に法華信仰受持を厳誡している。
本書は、かつて真言宗を信奉した大田氏に対し、理同事勝の誤りを評破して法華最勝の義を示すことによって、大田氏の覚醒と不動の信を勧められたものである。

(五)曽谷入道殿許御書→そやにゅうどうどのがりごしょ

(六)大田入道殿御返(おおたにゆうどうどのごへんじ)(一九七)=一篇。
建治元年(一二七五)一一月三日、五四歳の身延から送られた書状。
真蹟断片一一紙が京都本圀寺等に現存する。 系年について弘安元年説(境妙庵目録)、弘安二年説(対照録)もある。
本書は大田氏が重病に悩んでいることを報じたのに対し、慰諭された返書である。
初めに『維摩経』『涅槃経』『法華経』『摩訶止観』等の諸経論を引いて病気の原因、病気の様相、治病の大法を示し、病を治するのは法華経の大良薬に限ることを説く。 更に改悔滅の例を挙げ、病源は真言の謗法にあるのだから懺悔滅罪して治療すべきことを教え、今の病いは大田氏が改悔して真言の悪法を捨てて法華に帰依し、漸次に謗法の重罪を消滅しつつあると転重軽受法門を説示して、改信の功徳を実証され喜ばれている。
大田氏の今回の罹病は正しく謗法の重罪を滅するもので、妙法受持の力によって除病延寿の大功徳は疑いないと力説し、信仰の堅持を勧奨されたのである。

(七)除病御書(じよびようごしよ)(二〇一)=一篇。
建治元年の書状で、前文を欠いている。 真蹟は伝わらない。
内容は重病に悩む大田氏のための法華経のみが治療の大良薬であることを示すると同時に、聖人も謗法の罪障消滅を祈ったところ、大田氏より病気治癒の報が届き、これを喜ばれた書状である。

(八)乗明聖人御返(じようみようしようにんごへんじ)(二四三)=一篇。
建治三年四月一二日、五六歳の身延から送られた書状。
真蹟四紙中山法華経寺蔵(重要文化財)。 系年について弘安五年説(境妙庵目録)もある。
本書には「金珠女」(本尊聖教録)の異称があるが、これは金珠女の因縁談を引用して大田氏の布施の功徳を称賛した内容から名づけられたもの。
内容は、当鎌倉に在った大田氏夫妻が法華経に供養を捧げたのに対し、金珠女の因縁を引いて、法は諸仏の師とするところであるから、その法の中でも最高の法たる法華経に供養することは、仏に供養するよりもその功徳が勝れていると述べて、夫妻の成仏疑いないことを説くと同時に、謗法者への供養を厳禁し、純粋に法華経を信仰するべきことを示されている。
なお、近世初頭の受不受論争において、本抄の「夫れ劣れる仏を供養する尚九十一に金色の身となりぬ。 勝れたる経を供養する施主、一生に位に入らざんや。 但し真言・禅宗念仏者等の謗法の供養を除き去るべし。 譬へば修羅を崇重しながら帝釈を帰敬するが如きのみ」(定一三〇〇頁)の文が、不受の明文として常に挙げられ、遺文中に不受を説く唯一の文証として活用されている。

(九)大田殿女房御返(おおたどのにようぼうごへんじ)(二六五)=一篇。
建治三年一一月一八日、身延から送られた書状。 真蹟は伝わらない。
本書には「八寒地獄事」の異称があるが、これは本書の初めに八寒地獄の大要が説示されていることから名づけられたものである。
内容は大田氏夫人から綿・小袖の供養があったので、その功徳を賛歎して、商那和修・鮮白比丘尼・憍曇弥らの衣服供養の例を挙げて、夫人の功徳はこれらの聖者に劣ることなく、現世には大難を払って幸いに恵まれ、後生には八寒地獄の苦を免れる、と賛美されたものである。

(一〇)大田左衛門尉御返(おおたさえもんのじようごへんじ)(二八五)=一篇。
弘安元年(一二七八)四月二三日、五七歳の身延から送られた書状。 真蹟は現存しない。
本書は大田氏が供養の品々に添えて今年五七歳の厄年に当り諸病続発して悩んでいるから、と除病の祈願を願い出たことに対する返である。
内容は厄年に当り心身の苦あることに対し、一二因縁の法門を示して諸苦は今世に免れ得ざるところであると示し、次に厄年についての世間一般の観方を略説して、四悉檀化導であるからと世間の常識を開会する。
そして一念三千の法門を説く法華経のみが心身の諸苦を根治する大良薬であり秘法であると説いて、その肝心たる方便・寿量の二品の要旨を教示し、更に華厳・真言両宗諸師の邪見を破折し、事一念三千の法門は正像未弘、本化別頭の大法であることを述べ、災厄に対する信心の確立を勧誡されている。
聖人方便寿量の二品を書写し、それを厄払いの秘符として贈り「当年の大厄をば日蓮に任せ給へ」と安心を与えられている。

(一一)大田殿女房御返(おおたどのにようぼうごへんじ)(三〇八)=一篇。
弘安元年九月二四日、身延から送られた書状。
真蹟は現存しない。 本書は大田氏夫人が米一石等の供養を捧げたのに対する御礼の書状である。
聖人は過去世に飲食を施した金色王の功徳の例を引いて、夫人の今日の供養の功徳は今生・後生に亘る尊いものである、と称賛している。

(一二)乗明上人御返(じようみようしようにんごへんじ)(三三七)=一篇。
弘安二年七月二七日、身延から送られた書状。 真蹟一紙大阪長久寺蔵。
本書は一紙三行の短篇で、大田氏が米一石を身延聖人に送ったのに対する御礼の書状で、氏の供養の福徳を称賛したものである。

(一三)慈覚大師(じかくたいしじ)(三六一)=一篇。
弘安三年正月二七日、五九歳の聖人身延から送られた書状。
真蹟一三紙中山法華経寺蔵(重要文化財)。 系年について弘安四年説(対照録)もある。
題号は御自題ではなく、「大田入道殿御返」とも称されているが、これは対告衆に因んでの呼称であり、「慈覚大師」との呼ぶのは内容から名づけられたものである。
内容は大田氏から鵞目並びに絹の袈裟を送られたことに対する御礼を述べ、法華の根本道場である叡山天台宗伝教大師の法流を濁らせた根源は、延暦寺第三代座主の慈覚大師円仁が真言第一の教義を立てたことに発すると、その謗法を現証を挙げて糾明し、更にその末流である明雲座主を弾劾し、当時の叡山仏教が謗法に陥っている事実を批判して仏法の怨敵であると断言し、聖人門下に謗法を堅く誡められている。

(一四)大田殿女房御返(おおたどのにようぼうごへんじ)(三七〇)=一篇。
弘安三年七月二日、身延から送られた書状。 真蹟二一紙中山法華経寺蔵(重要文化財)。
系年については建治元年説(境妙庵目録、祖書目次、縮刷遺文)もある。
また本書は「即身成仏事」「即身成仏鈔」と古来より呼ばれているが、これは即身成仏は法華経に限ると説かれた内容に因んだ呼称である。
本書は大田氏夫人から月当ての供養米一石を送ってきたことに対する感謝の辞を延べ、即身成仏の実義を説き明かしたものである。
即身成仏の法門は法華経にのみ限られた重要な法門であって、諸大乗経とくに真言宗の弘法・慈覚・智証らの人々が、真言宗に即身成仏の義かあるように説いているけれども、それは何の実体もない有名無実の仮説であって、唯だ法華経の二乗作仏の法門によって真の即身成仏が成就するのである、と説示している。
更に弘法・慈覚・智証三大師の主張は、不空三蔵の僻見に基づくものであると『菩提心論』を評破し、当時の内乱・外寇の日本国の災難も真言の邪法に起因すると、日本の亡の危をも指摘している。

(一五)三大秘法抄→さんだいひほうしょう

(一六)成仏法華肝心口伝身造鈔(じようぶつほつけかんじんくでんしんぞうしよう)(続三二)=一篇。
建治元年一二月三日付書状。 身延から大田・曽谷・富木の三氏に宛てたものと伝えられている。
本書の内容は妙法五字五大・五輪・五智・五仏等の密教思想と数の合致するところから数法相配釈を下し、一切衆生が本来法爾としてとなることを説いたものである。 しかし既に禅智日好が「此書玉石不淘義趣不立、今古説に従い正蹟とせず、故に之を除く」(録外考文巻八)と指摘しているように、衆生の身体を五大五輪等と結びつけて解釈するのは台密思想の影響が大きく、また「成仏法華肝心口伝身造の法門也。 一代の所詮は此也。 此書を人に伝へは起請文を三書くべき也。 然らずんば之を伝ふべからず、秘中の秘密也」(定二一一〇頁)とあるのは、中古天台特有の秘密口伝思想が濃厚である、等の点から偽書とすべきである。
(小松邦彰)

図版

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