妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

上野氏

うえのし #271

上野氏

うえのし

日蓮聖人から駿河国富士宮市上野郷の南条氏一族に与えられた消息の宛名を見ると、南条兵衛七郎、同妻、南条七郎次郎光、同妻、南条平七郎、南条九郎太郎らの存在が知られる。
兵衛七郎は光の父、北条時頼の近習の武士で、頼の所領である上野郷に知行地を与えられていたので上野殿と地名を冠してよばれた。 正元元年(一二五九)頃に聖人の門に入り、一族を挙げて帰信し、文永二年(一二六五)頃に没したらしい。
上野郷の妙蓮寺に伝存する『平光伝』は、かなり後世の所作と考えられ、信憑に多少の疑問をもたれるが、これには南条新左衛門尉頼員の子と記され、妻妙法尼は近郷の松野六郎左衛門の女で、妻の弟が六老僧の一人、甲斐公日持であると伝える。
兵衛七郎の妻は、夫の死後に尼となって、夫同様法華信仰にはげみながら若年の子息、七郎次郎光、および当懐妊中であった弟の七郎五郎を養育した立派な婦人である。 光は文永の末頃にあっぱれ一人前の武士に成長して、父の後を継いだが、弟の七郎五郎は弘安三年(一二八〇)に一五歳の若さで、故で没するという不幸にみまわれる。 しかし光と母は、共に聖人に対する信仰をひるまず続け、この頃から駿河国の信者頭として、門下団の中核的存在となった。
弘安二年の熱原法難の折には、時光は立場上間接的ではあったが、その中心人物である日興を始め、連座の信者たちに擁護の手をさしのべている。
弘安五年に大病にかかったが、聖人は彼に『法華證明鈔』を与え、病気平癒を教説したところ、この死病たちまちにいえた。
また聖人からの賜書が、他の信徒たちに比べて大変多い。 これは前述の通り、駿河の信者頭ともいわれる有力檀越であったことによるが、それと共に彼の法華信仰に対する信解の深さを示すものであろう。 聖人が池上で入滅のとき、彼は病床に近侍し、葬送のときには散華の役を務めている。
身延山の守塔輪番制が、聖人入滅直後に直弟間で取決められたが、正応元年(一二八八)、聖人の七回忌頃にはその励行が難しくなり、山主制を採用することが評議された。 このことで身延の大檀越波木井実長と、この七年間身延山にあって実質的な守塔の役目を果してきた日興とが対立して、日興が波木井氏と訣別して身延を離山する態となった。
光は、この評議の席上にあり、波木井氏が山主に日向を推戴したいとの発言を聞いて「上野時光此の状を見て快からず、興上を伴ひて強いて身延を去れり」(『御書問答抄』第一〇巻)と、この離山問題に対する彼の態が伝えられる。 離山後、彼は富士に一宇を建立して日興を迎えた。 これが現在の大石寺である。
上述の『平光伝』(妙蓮寺本)によると、光は初め左衛門尉、のち修大夫となった。 本姓は平氏で北条政の裔だという。
彼は正慶元年(一三三二)五月一日に没し、法号は大行、彼の没後、上野郷の邸跡に一宇が建立され、寂日房日華が開山となって妙蓮寺と称された。 父兵衛七郎は入道して行増といった。 本は伊豆仁田郷の南条で、この地名を冠して姓とした。 所領は伊豆の南条を始め相模、丹波、上野、駿河などの諸所にも散在していた。 兵衛七郎が日興と旧好関係があり、それで父子共に聖人の門下となった。 仕官の身であるため、身延を尋ねることができず、毎月聖人供養物を送って教導をこうた。 そのため聖人の消息が最も多く残った。
竜口法難のとき、斬刑中止の幕命をもって刑場にかけつけた使者が兵衛七郎であったなど諸々の伝承を載せるが、附会的部分もかなりみられるので、すべてを信用するわけにはいかない。
一説によると南条七郎次郎光と上野光は別人であるとするものもあるが(『境妙庵御書目録』)、御書を検討すると同一人であることが歴然としており、この説はとるに足らないことがわかる。
南条平七郎については、全くその所伝が不明である。 聖人御書中、彼を対告衆としたものは、建治二年(一二七六)一二月に比定される『本尊供養御書』だけであるが、この書は古くから録内御書として重視されており、内容的には信憑も高い。 しかし真蹟が伝存しないので、一言一句の違いがないとは言いきれない。 そこに着目して兵衛七郎の兵衛を平と伝写中に誤写したのではなかろうかとする説もある。 だが兵衛七郎は文永期に没しており、その子光を兵衛とよんだ形跡もないので、この説は首肯しえない。 あるいは南条氏が本姓平氏であるところから、南条平の七郎と読むのではないかとする説もある。 だとすると光のことになりそうだが、これも推論にすぎない。 光の妻についても明らかでないが、富士門流の伝承によると、乙鶴御前または乙御前とよばれ、元享三年(一三二三)八月一三日に没し、法号は妙蓮と伝える。
光との間に長男太郎左衛門尉高直、二男次郎左衛門尉宗直、三男三郎兵衛尉忠、四男四郎右衛門直重、女子も二人あった。 また男子のうち乙若丸は出家して妙蓮寺四世日相、乙次丸は同寺五世日眼であるともいう。
なお大石寺二世日目は、光の姉で新田五郎重綱の妻であった蓮阿尼の子と伝えるが詳かでない。
南条九郎太郎については、建治二年九月一五日の『九郎太郎殿御返』と弘安元年(一二七八)一一月一日の同名の消息二通が伝存する。 しかし彼の伝記はまったく不明の状態である。 上野氏一族の近親者であることは間違いなかろうから、九郎太郎の名から推定して、光が兵衛七郎の子で七郎次郎、だとすると七郎の弟九郎の子が九郎太郎と考えてもさほど無ではなさそうである。
なお建治元年の『単衣鈔』は、上野氏に与えられた消息であるが、そこに記される藤四郎夫妻についても、まったくわからない。
《『本化別頭仏祖統紀』、『日蓮聖人御遺文講義』一四巻、『身延山史』、『遺文辞典』歴史篇「上野殿」の項、『昭和新修』別巻「南条兵衛七郎」「南条七郎五郎時光 附南条殿母尼・七郎・五郎」「南条九郎太郎」「南条平八郎」の項、『日蓮聖人大事典』「日蓮聖人と四大檀越」の項
(新倉之)

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