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台当相対

たいとうそうたい #1031

台当相対

たいとうそうたい

「台」とは台家天台宗のこと。
「当」とは当家日蓮宗をいう。
広くは日蓮聖人の流れを汲む団を指す。
相対とは彼とこれを対立せしめること、あるいはその両者を比較して勝劣浅深、取捨破立などを論ずることに用いる。
宗学上では『開目抄』の内外相対・大小相対などの五重相対があり、日蓮正宗の教義では『観心本尊抄』の種脱相対などの用例がある。
さて、台当相対とは字義のとおり天台宗日蓮宗義上の同異、勝劣、浅深等を論ずることである。
この相対がなされる由は、宗祖日蓮聖人が天台宗にて出家得度せられ、しかも天台教学を基盤として聖人独自の信仰体験の世界を樹立されたことによって、その天台教学と日蓮聖人学の違い目を明らかにしたことに端を発している。
もちろん日蓮聖人佐渡流罪を契機として、法華経本門を中心とする法華経受容と使自覚とを明確化せられるに至った。
そしてそこに天台宗の祖である天台大師智顗、あるいは六祖湛然、日本天台宗の祖である伝教大師最澄を超え、久遠実成釈尊からの直授を受けた本化地涌の応現という自覚を持たれたのである。
ここに至って、聖人伝統的な天台宗との訣別があったと見ることができる。
このように、宗祖日蓮聖人の中に胚胎している天台宗と、本門法華中心の本化別頭の教観との浅深勝劣の問題は、聖人滅後の大きな課題であったと推測されるのである。
それは日蓮学の独自を明確化するだけでなく、日蓮団の存立にまで関わっていたといえるのであろう。
もし、台教学と日蓮聖人の教学が一致、あるいは当時の天台教学の延長線上にあるのであれば、日蓮宗を形成することは意味のないことである。
しかるに、そこに何らかの差異があり、比叡山を中心とする天台宗に与同し得なかった聖人の門下は、やはり独自の伝導に専念し、教線を拡張し、社会的存在としての日蓮宗を形成したのである。
いまここでは、この天台宗日蓮宗との相対の問題を日蓮聖人の教学及び聖人滅後の学という二面から少しく述べてみたい。
まず日蓮聖人教学における天台教学受容とその超克について考察を進めるが、その第一に相承論、次いで五義判における「」、「」、「師」の面に焦点をあてたいと思う。
日蓮聖人比叡山横川系の流れを汲む清澄寺で出家得度せられ、天台教学、天台密教念仏宗等を修学された。
聖人天台宗の僧として出発されたのである。
文応元年(一二六〇)七月、宿屋入道最信を介して、『立正安国論』を北条時頼に献白されたが、このときの身分は「天台沙門日蓮」(定二〇九頁脚注)であった。
その後、松葉谷法難、伊豆流罪、東条法難等を経て、文永三年(一二六六)正月、清澄寺において『法華題目鈔』を述作されているが、このとき自らを「根本大師門人日蓮」(定三九一頁)と規定されたのである。
根本大師とは比叡山を開創した日本天台宗の祖伝教大師最澄である。
その最澄の直弟と表明されたことは、当時の学に対する批判があったからにほかならない。
聖人最澄は法華経を正依の経とし、余経を傍依と位置づけ、しかも大乗の円頓戒壇を建立した日本仏の元祖ともいうべき人だと見なされていた。
しかし最澄以後の人々は真言密教を摂取し、真言と法華との位置を逆転してしまった。
つまり釈尊一代聖教が不明確となって権実が雑乱していたのである。
聖人は「日本国の謗法は爾前の円と法華の円と一つという義の盛んなりしよりこれはじまれり」(定四九〇頁)と、円体無殊思想が謗法の基因をなしたと記され、更にこの思想に立脚した成仏について、「常途の天台宗の学者は爾前に於て当分の得道を許せども、自義に於ては猶当分の得道を許さず」(定一二五頁)と、爾前無得道を主張されている。
このように聖人が法華最勝を標榜され、その思想的系譜を最澄に求められたことは、最澄以降の叡山に対する批判となったものである。
しかしそれは聖人天台宗からの離脱や、比叡山の根本的な否定ではなかった。
比叡山遊学中の弟子、三位房に与えられたと伝える文永六年の『法門可被申様之事』には「仏法の滅不滅は叡山にあるべし」(定四五三頁)と述べられ、同年系年の『御輿振御書』には「今末法に当って日本国計りに叡山有り。三千界之中に但、此の処のみ有る歟」(定四三七頁)という記述は、比叡山にのみ正法が伝承されてきたと見なされていたようである。
もちろんそれは現実の天台宗の教団ではなく、法華一乗を標榜する理想の団であったと思われる。
さて聖人佐渡流罪を契機として、法華経信奉者は多く退転し、団は潰滅の危に瀕した。
しかも聖人折伏弘通あるいは教相を中心とする法門に非難が加えられていった。
しかしそのような危的状況の中で、聖人は自己をかえりみ、沈潜され文永八年九月一二日の夜半に日蓮は一死したのであって、法華経の世界に生きる魂魄日蓮として『開目抄』を認めていると自己認識されたのである。
そこには法華経未来記を歴史化し、予言を検証したという自覚があった。
そこに「日蓮なくば誰をか法華経の行者として仏語をたすけん」(定五六〇頁)と述べられるように、仏語を実践した法華経の行者の意識を明確にされ、しかもそれは本化地涌の菩薩として、本仏釈尊より法華経弘通の付嘱を受けた末法の師自覚でもあった。
その地涌の菩薩たる由縁は、三大誓願に象徴されている。
つまり三徳具備の本仏釈尊の誓願の継承が本化地涌としての誓願にほかならないからである。
更に『観心本尊抄』に至ると、本仏釈尊からの妙法五字の付嘱を明確にされ「所詮迹化・他方の大菩薩等に我内証の寿量品を以って授与すべからず。
末法の初謗法の国、悪機なる故に之を止め、地涌千界の大菩薩を召して寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字を以て閻浮の衆生に授与せしめたまふ」(定七一五-六頁)と述べられ、釈尊から本化の菩薩への相承を示されたのである。
つまり法華経虚空会上にあって、釈尊の勅宣を受け、しかもその勅宣に応えるべく涌出されたのが本化の菩薩であった。
この宗教的実存の世界こそが、日蓮聖人における内相承であり、本化別頭の法門であるといえる。
そしてこのような内相承に対し、法華経流通史という客観的歴史の場で相承を論じられたのが、いわゆる三国四師である。
それは『顕未来記』に明示され、インドの釈尊、中国の天台、日本の伝教、そして末法代の日蓮ということであった。
これを内相承に対し、外相承と称するのである。
このように聖人宗教体験法華色読を契機としてその宗教的意識に変化がみられ、従来の天台宗の相承とは異なる内相承を開陳されたのである。
ここに本化の学の樹立があったといえよう。
そこでこの義の面に次に触れてみたい。

天台大師は「妙法蓮華経」の題号を釈するに当って釈名・弁体・明宗・論用・判教の五重玄義をもって釈された。
そしてその中心をなすものは、体玄義であって、法華経の体を諸法実相と規定されている。
諸法実相は方便品を中心とする迹門のテーマであるが、その諸法実相の働きとして本門の久遠実成を見ようとされたのである。
つまり法華経は実相を体となし、迹本二門を同体と見る立場であった。
これに対し、日蓮聖人は「名詮自」という、いわゆる「名」を重んじられた。
例えば「大は大につけ、小は小につけて、題目をもて肝心とす」(定一二四三頁)、あるいは「天竺は七十箇国なり。摠名は月氏国。日本は六十箇国、摠名は日本国。月氏の名の内に七十箇乃至人畜珍宝みなあり。日本と申す名の内に六十六箇あり。出羽の羽も奥州の金も、乃至の珍宝人畜乃至寺塔も神社も、みな日本と申す二字の名の内に摂れり」(定一二四二頁)という表現をみても、名にその全体が包摂され、名はそのを詮わすということになる。
『十章鈔』には端的に「名は必ず体にいたる徳あり」(定四九〇頁)と述べられている。
それゆえに法華経全体は妙法蓮華経という五字に包摂されていると見なされるのである。
それは天台大師五重玄義をもって解釈された立場と異なり、それらを一つのものとして受容される。
観心本尊抄』には「是好良薬とは寿量品の肝要たる名体宗用教の南無妙法蓮華経是也」(定七一七頁)とある。
そしてその妙法蓮華経の「名」は諸法実相を「体」とするのではなかったようである。
「題目は法華経の心也」(定一二四三頁)、「妙法蓮華経の五字は経文に非ず、其の義に非ず、唯一部の意のみ」(定一二九八頁)、「法華経と申すは随自意と申して仏の御心をとかせ給ふ」(定一六一一頁)とあることなどから、妙法蓮華経は釈尊の御意(みこころ)ということであり、「されば法華経よませ給はむ人は文字と思食す事なかれ。すなはち仏の御意也」(定七九二頁)と述べられたことは聖人の法華経受容の根本であったといえる。
そしてそのとは、本門に開顕された久遠実成本仏にほかならなかった。
天台大師が法華経の体を諸法実相と見られたのに対し、聖人のそれは久遠本仏の御意、御内証であったといえるのではないだろうか。
そこに迹門重視の法華経受容と、本門重視の法華経受容の違い目があったといえる。
さて聖人はその法華経の根本原理は一念三千法門であると見なされていた。
その一念三千の法門は仏教史をつらぬく根本原理であって、この一念三千の有無によって一切経の勝劣を判釈された。
また教史においては、この法門と覚知せるか否かによってその勝劣浅深を論じられ、台教学にのみ、その優位を看取されたのである。
善無畏三蔵・金剛智三蔵、天台の一念三千の義を盗みとて自宗の肝心とし、其上に印と真言とを加えて超過の心ををこす」(定五四一頁)、「法華経の種に依て天親菩薩は種子無上を立てたり。天台の一念三千これなり。華厳経乃至諸大乗経大日経等の諸尊の種子皆一念三千なり。天台智者大師一人此法門を得給えり。華厳宗の澄観、此義を盗んで華厳経の心如工画師の文の神とす」(定五七九頁)等によっても明らかである。
この一念三千の法門においても、聖人は天台大師と自己の立脚点の相違を述べられている。
『富木入道殿御返』には「一念三千の観法に二つあり。一には理、二には事なり。天台・伝教等の御時には理也。今は事也。観念すでに勝る故に、大難又色まさる。彼は迹門の一念三千、此は本門の一念三千也。地はるかに殊也こと也」(定一五二二頁)と示されている。
つまり実践門における一念三千の観法は、像法時代の天台・伝教は理であり、末法の日蓮は受難の連続であって、三障四をまのあたりに具現化したという認識がある。
それは前者が迹門一念三千を根拠とされ、聖人は本門の一念三千にほかならなかったからであるという。
論ずるまでもなく、一念三千の観法は『摩訶止観』第七正修止観章に説示されたものである。
聖人はこの『摩訶止観』を本迹二門をもって解釈され「大意より方便までの六重は先四巻に限る。これは妙解迹門の心をのべたり」(定四八九頁)と、止観の第六章は妙解門で迹門によると述べられている。
更に第七章以降は「今妙解に依て正行を立つと申すは第七の正観十境十乗の観法、本門の心なり。一念三千此よりはじまる」と、正行の十境十乗の観法は本門によると明示される。
続いて「一念三千と申す事は迹門にすらなを許されず。何に況や爾前に分たへたる事なり。一念三千の出処は略開三之十如実相なれども、義分は本門に限る」と、一念三千の出処は本門であると信解せられている。
その本門とは、本門寿量品であり、発迹顕本を契機として本因本果法門が開顕される当処をさす。
このように聖人は純粋本門法華の立場から一念三千を信解され、天台大師のそれは十如実相の理にして因人の従因至果への修行過程にその実践門を見出され、聖人の場合は久遠本仏の果上の一念三千と見られ、末代凡夫が絶対信心を媒介として妙法五字を受持する従果向因の世界を実践門とされた。
つまりそれは釈尊本願の継承が末代凡夫の実践行であり、歴史的現実への能動であることから、三障四魔興起の必然があると見られたのである。
それゆえに台・伝教両大師理の一念三千(迹門)、日蓮聖人は事の一念三千本門)と規定されたものといえよう。
このように聖人が理・事を分別される一つの要因として、正像末の三時説に基づく歴史認識があった。
末法という代認識は一種の下降史観であった。
正法像法の時は世もいまだをとろへず、聖人賢人もつづき生れ候き。天も人をまほり給ひき。末法になり候へば、人のとんよくやうやくすぎ候て、主と臣と親と子と兄と弟と諍論ひまなし。まして他人は申すに及ばず。これによりて天もその国をすつれば、(略)やうやく世間はをと(衰)へ候なり」(定一四〇一-二頁)、あるいは「仏御入滅ありては二千二百二十余年なり。代すへになりて智人次第にかくれて、山のくだれるがごとく、くさのひきゝににたり」(定一六〇三頁)、という叙述の如く、末法は濁乱の世であり、凡夫の機根の衰微を意味していた。
このような代にあって、教法弘通は困難であることは論を俟たない。
しかも妙楽大師湛然『摩訶止観輔行伝弘決』巻六之四に「教弥実位弥下」と説かれており、実大乗の教法の受持によって、末代凡夫の階位は最下であるという認識である。
それゆえに教法流布において、その功徳は正法よりも像法像法よりも末法が超勝するということになる。
報恩抄』には「されば内証は同じけれども、法の流布は迦葉・阿難よりも馬鳴・龍樹等はすぐれ、馬鳴等よりも天台はすぐれ、天台よりも伝教は超えさせ給ひたり。世末になれば、人の智はあさく仏教はふかくなる事なり。例せば軽病は凡薬、重病には仙薬、弱人には強きかとうど(方人)有りて扶くるこれなり」(定一二四七-八頁)とあって、正像と末法との差異を明らかにせられ、更には「日蓮が慈悲曠大ならば、南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし。(略)正像二千年の弘通は末法の一に劣るか。是はひとへに日蓮が智のかしこきにはあらず。のしからしむる耳」と結論づけられている。
このように正法像法末法とを対判せられたことは、単なる被投的な歴史的の問題ではないことは論ずるまでもない。
それは先述のとおり、釈尊末法救済の本願を現実化することであって、歴史とのかかわりをもつ使という面がある。
つまり教法を弘通する依師が問題となるのである。
それは法華経の付嘱であり、相承ということでもある。
聖人仏滅後の付嘱をつぎのように配釈されている。
正法一千年にあっては「我滅後五百年が間は迦葉・阿難等に小乗経の薬をもて一切衆生にあたへよ。次の五百年が間は文殊師利菩薩弥勒菩薩・龍樹菩薩・天親菩薩に華厳経・大日経般若経等の薬を一切衆生にさづけよ」(定一〇八四頁)と、小乗の四依・大乗の四依を明かされるのである。
続いて像法千年にあっては「我滅後一千年すぎて像法の時には薬王菩薩観世音菩薩等、法華経の題目を除て余法の薬を一切衆生にさずけよ」(同上)と、迹門の四依が明かされる。
この四依について『観心本尊抄』に「像法中末に観音・薬王、南岳・天台等と示現し、出現して迹門を以て面(おもて)と為し本門を以て裏と為し」(定七一九頁)とあって、観音・薬王は像法の南岳・天台等と応現され、迹面本裏の法華経を弘通せられるという。
そして末法においては「末法に入りなば迦葉・阿難等、文殊・弥勒菩薩等、薬王・観音等のゆづられしところの小乗経・大乗経竝に法華経は文字はありとも衆生の病の薬とはなるべからず。所謂病は重し薬はあさし。其時上行菩薩出現して、妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生にさづくべし」(定一〇八四-五頁)と明記せられ、末法は本化地涌の菩薩妙法五字付嘱されたというのである。
つまり本仏釈尊の仏勅を受けた本化の菩薩は末法に出現せられて「本面迹裏」とする法華経―妙法五字―を弘通されるのである。
その地涌の菩薩とは日蓮聖人であり、本門の四依である。
ここに〈像法迹面本裏―迹門四依―南岳・天台〉ということと、〈末法―本面迹裏―本門四依―日蓮聖人〉という釈の差異が見られ、学と本化別頭の学の違目が明確化されることになるのである。
以上、日蓮聖人遺文にみられる天台教学と日蓮聖人学の相違を概観した。
この聖人教学を原点として、聖人滅後の門下は、どのようにその学思想を受容し、展開したかを見なければならない。
しかしその課題は日蓮宗学史の根本命題である。
ここでは学史の中での台学と日蓮学との関わりなどについて、概観しておきたい。

日蓮聖人およびその門下の僧はもと天台宗に所属し、その宗より本門法華を根本として徐々に独立を計っていったのである。
そのことから、ややもすれば門下には化儀の面において天台宗に与同し、叡山戒壇を踏むということも行われていたようである。
また学面では台当一致が主張された面もある。
本来、台当一致が存在することはあり得ないのであるが、これは誤った一致論で、台家の迹門と当家本門と一致するというものである。
また近世においては、本圀寺日達が本迹論において台当一致の説に近いものを説くのである。
しかし団の大勢は天台宗と当宗との違目、あるいは両者に勝劣を論じ、日蓮教学の独自を発揮する方向へと進んだ。
例えば摩訶一日は、天台を「迹」、日蓮聖人を「本」とすることによって、その両者を相対し勝劣を論じている。
室町代の学の特色は、門流学であって、学の勃興代と見ることができる。
宗内にあっては本迹論争が喧しく、本迹の一致・勝劣を争い、宗外にあっては、天台宗と当宗との権実論争が盛んである。
とくに台無得道を標榜したのである。
この場合の台とは、もっぱら中の天台・妙楽等を指し、当時隆盛を極めた中古天台観心主義思想を、学樹立に当って摂取している。
この学界にあって、宗学史において初めて宗学の樹立を図ろうとしたのが慶林日隆である。
日隆学の特色は遠く台・妙楽の中天台、近く当時の中古天台との教義を区別して、祖書中心の宗学を組織せんとしたことであり、教義的には独自の本門八品思想によって、台当の相違を分別したことである。
日隆の著述として、その学の独立を宣言したと伝える『法華天台両宗勝劣抄』四巻(別称『四帖抄』)があるが、本書は台当本迹を論じたもので、これによって一部修行本勝迹劣、本門八品上行所伝の義を明らかにした。
また法華経二八品の註釈書である『法華宗本門弘経抄』一一三巻は、日蓮聖人の義である本門法華の立場から解釈がなされ、天台三大部を釈するに当っても、すべて当家の立場で為されている。
このように日隆の全著述は、台家当家との相違を分別することに傾注され、当家の存立念を鮮明にすることがその目的であったといえる。
ここに学史上における日隆学の意義があると思われる。
室町代後期より織豊代に入ると、団史的には洛中の日蓮宗寺院が潰滅するという文五年(一五三六)の「文の法難」があった。
続いて信長の宗教政策によって弾圧を受け、天正七年(一五七九)の「安土法難」によって従来の折伏を宗是とする宗風に一大変調を来したのである。
そこで学を復興せんとして泉南の地で行われたのが「三光無師勝会」である。
それは三大部述にほかならなかった。
それ以降、比叡山等に遊学した諸師は檀林を創立していったのである。
その学風は従来の中古天台研究から、中台・妙楽を中心とする台学研究へと傾斜していった。
豊臣代から徳川代に入ると、幕藩体制が確立し、宗内にあっては受不受論争が展開し、不受不施義は弾圧をうけ、受派は政治体制に迎合していったのである。
学界はもっぱら台学偏重となり、檀林における教育課程も作為的に台学が中心となったのである。
そのような学風の中で心性院日遠は天台三大部の註釈をなしたが、ことに『文句随問記』一三巻は純粋に天台学の立場から述作したもので、別教の中証と本門の般若を同一視し、権実ともに下種益を得ると釈したのであって、宗学の立場から多くの問題を含んでいる。
日遠の学的態は、日蓮教学より台学に移っていたとも見ることが出来る。
院日講は日遠のかかる註釈的態度を強く批判し、法然にもまさる権実雑乱の人だと記している。
日遠には多くの門下が輩出し、それぞれ檀林能化として活躍している。
檀林は天台学を中心とし、学閥が重んじられ、徐々に形式化して法類閥の温床と化していった。
外には浄土宗並に浄土真宗と当宗との論争がくりひろげられていたが、日蓮学からの適切な反論はいまだなされていなかったといえる。
かかるときに、一妙院日導は寛延二年(一七四九)中村檀林の学友四人と共に、宗学復興を誓い、同盟起請の文をしたためている。
同門の人々が台六〇巻に精通して「荊溪四明の佳児孫と称すとも、苟も塔内別付の賾を探らずんば、我に於て如何ぞや」というのが、日導の信念であった。
その結果『観心本尊抄』を骨子とする宗学論の著述が完成した。
それは『祖書綱要』二三巻六三章であった。
つまり一妙院日導は宗学の復興と宗学の組織化を志向したといえる。
その学は台当分別に重点を置き、従来の台・妙楽、あるいは趙宋台四明学重視を排したが、その中心をなすものが中古天台恵心流的な本覚義であった。
そのため自然本覚的な観心主義の色彩が強いことが指摘できるのである。
このように江戸代後期になると、宗学復興のきざしが見え、代表的な学匠として、陣門の本有日相、隆門の忍定日憲、陰山日耕、什門の本昌日達、合掌日受、興門の守真日住らがあり、更には真門の遠成日寿、什門の永昌日鑑、一致派の本妙日臨、優陀那日輝らが輩出して研鑚、組織化がすすめられ、新しい時代に応えるべく努力がなされ、その学は後人へ継承されていったのである。
(北川前肇)

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