法華宗本門弘経抄
法華宗本門弘経抄
ほっけしゅうほんもんぐきょうしょう
一一〇巻、室町時代の代表的な教学者、慶林坊日隆(一三八五-一四六四)の著作。全一一七巻。
日隆は四条門流の通源日霽に師事したが、わずか四年程で師の示寂にあい、日霽の跡を月明が継承した。
しかし月明の軟弱な摂受的態度を批判し、妙顕寺(当時は妙本寺)を退出し、自ら折伏伝道にあたった。
その教義は本勝迹劣の本門八品正意を主張し、盛んに勝劣義を鼓吹し、一致派および当時の天台宗に対する批判を加えていった。
そして日隆は三〇〇余巻にものぼる多くの書を著したが、その著述は天台教学に対する日蓮聖人の法華宗の立場を明確化することにあったといえる。
つまり天台教学と本門法華の異目が全著作の根底にあったといえるであろう。
日隆の学問の態度は、(1)広学主義の否定、(2)中古天台に影響を受けた観心主義教学の否定、(3)教相主義、(4)天台三大部の本門法華からの解釈、(5)祖書中心主義、とくに『観心本尊抄』を重視する立場であった。
このような態度で著述活動がなされたが、日隆の著作中『法華宗本門弘経抄』の位置を見ておく必要があろう。
日隆の代表的な書を列挙すれば『御書文段集』六巻(著作年代は『本尊問答抄文段』に永享八年とある)、『十三問答抄』二巻、『私新抄』一三巻、『戒体見聞』(三帖抄と称する)三巻、『法華天台両宗勝劣抄』(四帖抄と称す)四巻、『玄義教相見聞』(一帖抄と称す)、『本門法華宗五時四教名目見聞』(文安三・四年=一四四六-四七=頃の著述、五帖抄と称す)一六巻、『六即私記』三巻、『本門法華宗開迹顕本宗要集』(享徳二年=一四五三より康正二年=一四五六の著述)六六巻、『本門法華宗開迹顕本玄文止三大部略大意抄』(康正三年の著述)一七巻等をあげることができる。
これらの中で『開迹顕本宗要集』の巻数が多いが、本抄は一一三巻であって、日隆の著作中最も大部の書であることが理解できる。
さて本抄の著作年代であるが、日隆は六一歳の文安二年(一四四五)に、本抄述作のための草稿に着手し(『法華宗年表』参照)、翌文安三年より本抄の著述にとりかかっている。
爾来八箇年の歳月を経て、享徳二年(一四五三)一一三巻を完結した。
「嘱累品」の巻末には「記者既に六十九才なれば廃亡之有るべし。悲哉」と記されている。
本抄の執筆された場所は、尼崎の領主細川右京大夫満元の帰依によって建立された本興寺においてであった。
本抄は前述のとおり、台当異目を主眼として妙法蓮華経の二八品を解釈したものである。
即ち日蓮聖人の遺文をまず中心に法華経を解釈するのであるが、その解釈に当っては天台大師の『法華玄義』『法華文句』等の三大部を駆使している。
その天台三大部の引意は日蓮聖人の本門法華の教学を援証せんがためである。
本抄は、まず首題の大意を一〇巻にわたって述べ、この大意分を(1)本門最上経王、(2)本門流通如説修行、(3)本門流通大意釈名入文判釈の三科に大別している。
(1)本門最上経王には法華経本門が諸経の中で経王であることを明かして、天台宗の迹門重視を批難し、(2)本門流通如説修行には本迹両門の流通の大旨を示して、本門流通は折伏の如説修行であるとする。
(3)本門流通大意釈名入文解釈には同じように本迹二門に分別し、本門には更に(1)本門流通大意、(2)本門流通釈名、(3)入文判釈の三科を立てる。
そして(2)本門流通釈名の下にまず本迹二門の通号である妙法蓮華経の五字を総釈し、次に本門の妙法蓮華経および観心を別釈して天台宗に対する日蓮法華宗の教相と観心の特殊性を示している。また別号の序品第一の意義を解釈し、(3)入文判釈の下に序・正・流通・二経六段および本門の四種釈を解説している。
以上が全巻中、はじめの一〇巻の大意である。
次に第一一巻より第七二巻に至る六二巻には迹門十四品の文義が釈され、第七三巻より巻末までの四一巻には本門十四品の文義が釈されているのである。
これら諸品の中で謗法の義、円頓戒の義、顕本義、本尊義、下種論、付嘱論等の宗義が明らかにされ、随所に日隆の宗義理解が示されているのである。
なお本抄の直筆は尼崎本興寺に秘蔵されて従来他見を許されなかったが、大正一四年より昭和九年にかけて原漢文に和訳を添え、一一三巻を全一一巻に収録し『原文対訳日隆聖人全集』として刊行された。