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松葉谷法難

まつばがやつほうなん #3567

松葉谷法難

まつばがやつほうなん

日蓮聖人四大法難の一つ。
文応元年(一二六〇)八月二七日の夜、日蓮聖人が鎌倉の松葉谷の草庵において念仏者達に襲撃された難をいう。
この背景には法然浄土に対する日蓮聖人の激しい批判がある。
それは『立正安国論』に述べるが如く、近年続出する天変地天、飢饉疫病は念仏宗等の邪法が興盛して、正法の流布を止めたから日本国守護の神も護護法の力を失い、このを捨て去ったことによる。
この災厄を止める法は念仏等の邪義、謗法を禁断するにあり、もしこのまま放置すれば、諸経の明文を考えるに自界叛逆(内乱)と他国侵逼(外冠)の難、更に主は短命にして堕獄するの難に遭うであろう。
そして「汝早く信仰の寸心を改めて速かに実乗の善に帰せよ」と勧め、法華正信に帰依すればこの大難も避けることができることを述べた。
日蓮聖人はこれを文応元年(一二六〇)七月一六日、宿屋入道を取次ぎとして幕府の実権者、前執権北条時頼に献進したのである。
しかし、かえって幕府上層部の怒りをかい、また聖人の激しい念仏批判に恨みを抱いた諸大寺の僧やその信徒らは、この機に乗じて聖人を暗殺せんとし、幕府の中にもこれを援助するものもあって、同年八月二七日の夜、大勢の暴徒は松葉谷の草庵に押寄せ、火を放ち焼き殺そうと計った。
しかし聖人は危ないところを脱れ、難を下総国の富木常忍のもとに避け、ここを中心に約一年の、遊化に従ったといわれる。
なお、松葉谷法難が起こったとされる「八月二七日」について、近年の研究では様々な異説が唱えられている。
法難のあった月日の記述は、江戸代の一七世紀後半以降の祖伝類や著述から確認されるようになること、また中世以降、一部の宗門寺院の年中行事では四大法難会といえば伊豆法難小松原法難・龍口法難・佐渡法難が代表的で、松葉谷法難は位置づけられていなかったことなどから、松葉谷法難の起こった期については詳らかでない、あるいは法難そのものが認知されていなかった等の指摘がある。
《『日蓮辞典』「松葉谷法難」の項、『日蓮聖人大事典』(国書刊行会)「日蓮聖人の生涯」「日蓮聖人と法難」の項、『日蓮聖人事蹟事典』「神奈川」の項、寺尾英智「日蓮聖人の法難と法難会」『日蓮宗勧学院中央学研修会義録』二〇号》**

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