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本宗修法の歴史(ii)

ほんしゅうしゅほうのれきし #3385

本宗修法の歴史(ii)

ほんしゅうしゅほうのれきし

本宗の修法の歴史は日蓮聖人が初めて祈祷経を撰述読誦せられた時より記述することであろうが、まず聖人御入滅の後より始め、明治時代に到る修法祈祷の変遷について考えてみたいと思う。
聖人より種々御祈祷についての相承を授けられたと思われる直弟子の方々の門流の祈祷に関する事績は、中山門流を除き、京都開の日像まで殆ど見られないのである。
中山二世日高は正安四年(一三〇二)四月の申状に「天下泰平異敵降伏の祈り」をするとあり、正和四年(一三一五)四月には「御祈祷に於ては先例に任かせて奉行」と言い、また三世日祐も延文六年(一三六一)譲状に「御祈祷に於ては先例に任せて勤仕すること」とある。
帝都開の日像は日毎に祈祷経を読誦して折伏伝道に当ったのであるが、このことは京都の庶民ばかりでなく次第に公、武の帰依を得るにいたり、妙顕寺の建立を見、またその依頼によってしばしば天下泰平、国家安全等の祈祷を厳修している。
建武元年(一三三四)勅願寺となり、初めて法華一宗の公認を得たのである。
祈祷には必ず読誦されたことであろう祈祷経が、当時の京都の僧俗の間に特に読誦され共に布教伝道に当っていたのであるが、日像は開教二五年目の文保二年(一三一八=聖人滅後三七年)に、祈祷経を註した『祈祷経之事』一巻を著して法華経受持の篤信の僧俗に授与している。
日像が師の日朗より授与された祈祷経には、日像の註によると本門段に入る讃文に、「祈 広布 無二之信者貧窮短命等之事」という一句が有ることで、なお不思議なことには、これ以後の現存する祈祷経には、この句が欠けている。
しかし、この一句が修法布教に携わる者にとっての頂門の一針であり、また篤信者の覚悟を促すものであることには違いないことであろう。
日像の弟子の妙実も延文三年六月に雨を祈って祈祷成就し、聖人には大菩薩号、日朗、日像には菩薩号を下賜され、妙顕寺には四海唱導の称、妙実には大覚の称号と大僧正の官位を賜っている。
この頃の祈祷法は聖人の御相承によったものであろうが、正慶二年一〇月(一三三三=聖人滅後五二年)富士門流の日妙が石川実忠の病気祈念の際、その枕頭で陀羅尼と普賢咒を読んで祈祷した(日代上人重須離山之事)とあるが、祈祷経送状に「此一巻の書を誦して仏天に祈誓し、御弘通有るべく候」とある故、初めに祈祷経を読誦してから六番神咒に移ったのであろう。
室町期に入ると、京都に進出した各門流伝道布教は目覚しい効果を挙げているが、また僧俗の祈祷経読誦も一層盛んになっていったようである。
このことは、一方において息災延命所願成就の小願祈念にのみ走り、広宣流布の大願を忘れた読誦に堕した幣害を生じたのであろう。
遂に「撰法華経付属御書」の出現となり、主として在家の祈祷経読誦を禁止したのである。
この様な祈祷経に対する関心は日像撰述の『祈祷経之事』より約一〇〇年後の室町中期より戦期にかけて一層高揚し、多くの口伝書が相承されている。
ち、
祈祷経口決〈訣〉(愚註) 陣門のもの 寛正五年(一四六四)
祈祷経口決  身延山一一世日朝 文明一三年(一四八一)
祈祷経血脈 日朝 文明一三年
祈祷経之事 日朝 文明一三年
祈祷経三頂口決 日朝 文明一三年
祈祷経相承 日誉 延徳二年(一四九〇)
祈祷経三ヶ五ヶ相承 身延山一二世日意 文亀三年(一五〇三)
祈祷経口決(平賀伝  文一二年(一五四三))
祈祷経聞書 身延山二〇世 日重  正二年(一五七四)
祈祷瓶水抄  身延山二二世 日遠 慶長一二年(一六〇七)
等があり、いずれも口決相承を受けてから祈祷経を読誦すべきであるとしている。
室町後期に入ると、今迄の祈祷法を一変させるような口伝相承を文亀三年五月八日(一五〇三)身延山一二世円教日意が伝承解説しているが、この口決書は剣形御書を伴った『首題剣形相伝』と称するものである。
その内容は『兵法之大』の内の『剣形之大』と『九字十字之大』の口伝を当宗に取入れたことの会通である。
『剣形之大』に対しては謗法の敵を摧伏して、二世の所願を満じ、また敵法敵を平らげんためである。
九字、十字之大事』は兵法の九字、臨兵闘者皆陣列在前の持っているという呪力を当宗に移し、法華経の九字によって怨敵を対治し、無明煩悩の盗賊を平らげて自行化他に益するのであると説いている。
この口伝書の冒頭に「中山門流にも此相伝 之云云」とあって中山にも伝えられていることを示しているが現存しない。
ただこれより約二〇〇年後の正徳三年(一七一三)、中山の『当流加行目録』にある伝書の中に『剣形抄』『当家九字秘法』の一項があり『首題剣形相伝』とは文章に前後はあるが大同のものが載せられている。
これは久遠成院日親の相伝としている。
この「九字、十字の呪法」と「剣形」の伝承は爾後の祈祷修法の実践に大きな影響を与え、「九字、十字の呪法」は符守の認め方にも及び、また経句の九字配置によって修法上それぞれ意味の違う祈祷九字(→くじ・九字)形となり、「剣形」は修法上種々の意味をもった各種の剣形木剣が作られ、九字形に合せて九字を切るという所作は本宗の祈祷修法に欠くことのできない作法となって今日に至っている。
この頃、京都の各門流では本寺の下に祈祷所が各所に設けられていて、祈祷修法を盛んに行っていたことは宝徳三年(一四五一)の本興寺日隆の制定したかな書きの『信心』によって知ることができる。
この祈祷所が布教伝道の第一線となっていたことであり、ここで「みこ」「かんなぎ」などと呼ばれる憑り台を使っての寄り加持や、また病気平癒の現加持も行われ、御守札、御符、屋堅め札等の祈祷札の授与などもあったようである。
身延山においては、文明一八年(一四八六)『本尊灌頂秘決』(『大黒相承』)、明応五年(一四九六)には『正中山深秘抄』(『大黒灌頂口決』)、明応九年には同じ中山門流の『護秘口伝抄』等の古い口決書が伝写されている。
しかし修法相伝書の基準ともなるべき「御苻書」は未だ伝承されていないようである。
御苻書」は多くの切紙を集めたものであるが、身延文庫にはこれらの修法に関する切紙が多数保存されている。
いまその一部を挙げると、
 一護之口伝図 明応五年(一四九六)
  息災延命守札 身延一二世日意相承
 一御苻之品々認様四種 身延一三世日伝
  御苻
  御苻相伝
  難産御苻
  産後御苻
 一詛返御苻 文亀元年(一五〇一)
   其他御苻四種
 一発(おこり)之御苻 文亀二年(一五〇二)
 一疫病御苻  永正元年(一五〇四)
  オコリ守
  子安御苻
等のものがあり、戦時代末期、江戸時代前期にはは中山門流のものに積善坊流の切紙及び京畿方面の切紙も加わり、身延流相伝書ができるのである。
中山門流祈祷修法がこの時代迄どの様であったかは不明であるが、「前例にまかせて」の「天下泰平の祈祷」は当然厳修されていたであろうし、祐師譲状(『宗全』第一巻四四〇頁)に「公私の御祈祷」とあることによって一般的な祈祷も行われていたことが推察できる。
正二年(一五七四)の「祈祷経聞書」―身延山二〇世一如院日重が、その師山光院日詮(三光勝会の一人)よりの聞き書という意―の中に、取意、「師の仰せに、諸門流の中に中山に別して切紙の相承多きことは、大田乗明の被官で及川宗秀というものがいて日蓮聖人より種々のことをお聞きして日常、日高に伝えたからである。
しかし中山相承といっても、そう多くはないのだが、後の常明院日妙、常寂院日耀等の時に、聖人の御相承ではないが祈祷に関する切紙を多く集めて希望者に相承したこともあった」という。
これより一八年後の正一九年になると、中山一〇世日俒(一五一五-九八)は「祈祷一派制規」を示し、「貫は尊貴にして貧賤を救はんとするにその意に任せず、後代益々重くなれば則ち大法貴族のに留り貧賤を利用すること能はず、是れ豈に蓮祖大士の御本意に非ざるなり。
汝謹で貧窮を愍念せよ」として中山流の祈祷を公開したというが、その時の中山の相伝書は「中山日俒聖人祈祷伝受許状」によると、   御守ノ伝受 三十三丁 是ヲ一紙相承トイイ
  御苻、指南等 三十八丁 之ヲ合セテ七十余通
  加行ニ依テ之ヲ許ス
とある。
その後中興と称する(中山流祈祷の中興という意か)中山院家浄光院一〇世権大僧都日然(-一六四八)が注写したとあるものによると、前述の七〇余通の外に、御苻抄より段々に相伝するという「雑巻」があり。
初心者には「新巻」ばかりを許すという「新巻」が加わったことが知られる。

以上、南北朝、室町代、戦期を通じてわが宗の祈祷修法は京都方面において早くから発展していたようであるが、祈祷師の養成、秘法の伝授等はやはり、伝統もあり、加行の場所を持つ中山身延山にその淵源は発していたように思われる。
文禄二年(一五九三)中山貫首輪番制の発足は、その当初より中山院家側と輪番貫首側との対立を来たしたのであるが、この事は祈祷加行、修法相承の上にも重大な影響を及ぼし、貫首側は京畿方面の祈祷師養成に支障を来たしたためであろうか、中山二五世行嶽院日長(一五九三-一六三九)は智泉院一〇世日住に加行場の設置を命じたのであるが、彼の寂後六年目の正保元年(一六四四)に開設されたという。
この日住は「祈祷条目を定めた初祖」とされているが、智泉院行堂の初期の相伝書は未見の為如何なる相承であったか不明である。
江戸中期の元文四年(一七三九)の智泉院伝書の跋文より推察すると、智泉院で加行し、相伝書はその都度本山から持参し、伝授していたもので、この伝書は「正中山相承御切紙七十五通之内」とある全二四紙のものである(兵庫県加古川市・宝塔寺蔵)またこの時代の智泉院流伝書と思われるものの内容が、正中山相承の外に、身延積善坊流、普明院流も集録されているが、その中には明らかに京畿よりの切紙と思われるものも含まれていて、いずれも「正中山相承」としてあるが明らかに、その相伝書が未だ整されていないことが解るのである。
しかしこれより二二年後の宝暦一〇年(一七六〇)になると、これらの伝書は五巻本に整され、各巻頭には目次を付け「祈祷鈔」と名付けられて相伝されているのである。
和歌山県田辺市本正寺蔵)。
一方、院側では智泉院行堂開設より二七年後の寛文一〇年(一六七〇)の頃、中山二四世真如院日逮の命によったとして「円立坊」と称する加行道場を設立し、中山泰福寺七世経王院日詳(一六〇八-七八)を初代に迎えているが、智泉院二〇代守玄院日啓の天保七年(一八三六)一二月一三日付允許した「正中山相承御祈祷顕妙抄」(埼玉県本国寺沼田行正師蔵)中の一項目「中山祈祷師子相承之事」によると、「正中山十世日俒師ヨリ智泉院日沾ヘ相承三代目ヨリ円立坊遠寿院日祥相承、日祥元来山ノ内泰福寺歴代ニテ経王院之事也」とあって正中山祈祷相伝の系図を明らかにしている。
しかし智泉院の歴譜には日俒(一五一五-九八)と同代に日沾という人物は無く、正徳五年(一七一五)寂の一二代慈遠院日沾があるも、これは日俒と年代が違い過ぎる。
智泉院歴代の内で日俒と同代の人を求めると慶長八年(一六〇三)寂の七代智泉院日演がある。
惟うに「日エン」が「日テン」と転訛して呼ばれることはあることで、守玄日啓が「エン」を「テン」と思い「沾」の字を用いたのであろう。
なお日沾には「慈遠院」という院号がある。
もしこの智泉院日沾が七代智泉院日演とすればその三代目は「祈祷条目定初祖」とされている一〇代智泉院日住(寛文三年=(一六六三)=寂)なのである。
この日住から経王院日祥は正中山の祈祷相伝を受けているのである。
この円立は後の遠寿院のことで、二代目は生院日遼(一六二二-一七〇八)で泰福寺の八世である(柴又題経寺歴代でもある)。
彼の弟子で円立三代を継いだ遠寿院流祈祷の始祖ともいわれる遠寿院日久(一六六二-一七二七)がいる。
彼は三〇歳のの元禄五年(一六九二)の五月に入行、同年一二月末日迄在行し、正中山流の祈祷相承を浄光院一六代法性院日諦(初め日逮と称し、後日諦に改む)より皆伝し、翌元禄六年から同八年にいたる三ヵ年の間、身延山七面山に登詣苦行すること七度び、七面山参籠苦行壱百日成就し、彼の雲切木剣で有名な積善坊一二代満行院日順の指南によって、当時まだ中山には伝承されていなかった「祈祷瓶水抄」の相伝を受けているのである。
彼は相伝の師日諦と共に修法の研鑽に勉め、中山祈祷相伝書の原典とも称せられる口伝切紙集である「御符書」の各所に筆を加えて後代の愚蒙に備え、終に同書を「法華顕妙抄」四巻と改称した。
晩年に到ってはその修法研究の成果を「本覚五神法」と名付けた秘書を著して祈祷の秘要を示し、縁故に授けたという。
また、これより先、日久の行効大いに上ったことによってか、正徳二年中山四院家合議上、中山流修法中興の浄光院一〇代日然の注写した伝書を再整理し、目録を付して正中山当流祈祷相伝書として、中山五七世日圜の首題年月日並に判形を各伝書の巻頭に加え、院家の連署をもって円立坊の日久に収置保管を命じているが、今円立坊収置の伝書を「当流加行目録」から挙げると、  各種の相伝書をまとめて二十三項目十二巻
 御 符 書四巻
 各種の秘伝書をまとめて八項目八巻
 其他易占筮法書四巻
とあり、その中現在は失われた易占筮書を除いて現行相伝書の目録に大同である。
これ迄の円立は修行のみの場所で、相伝所は伝書を収置した浄光院であり、相伝の師は、その住職が当っていたのである。
今院のこの処置は貫首を補佐して修法相承を許可したことになり、名実共に円立加行所となって、ここに正中山流の祈祷は智泉院流と円立坊流(当流、遠寿院流)の二つの流派ができたのである。
なお円立が遠寿院と改称昇格するのは文化前後の頃からであろう。
身延山にあって祈祷に関する文献が出て来るのは、一一世日朝、一二世日意、一三世日伝の頃からで、主に口伝書等の蒐集、解説に主眼が置かれていたようである。
一四世日鏡の頃から急速に全的に拡がった七面山信仰は身延山祈祷にも大きな影響をもたらした。
このことは七面山を中心とする山林で苦修錬行に励む修行僧の出現である。
彼らは多く身延山東谷の小庵に寄住して修行に励んだが、積善坊もこの東谷にあり、後に積善坊流の発生ともなったことは周知のことである。
七面山に登詣しての苦行者の中から参籠三〇〇〇日成満し「荒行の祖」といわれた仙応坊日慧を生み、その弟子で揚枝加持で有名な仙寿日閑(一五七五-一六七二)を出している。
『別統』の「日閑法師伝」によると、日閑は智行兼備の人で、七面山に一〇〇日苦行し(一〇〇日を期しての加行は日閑が初めてか)、深夜唱題中に御宝前花瓶の一枝が日閑の頭上に飛来したのを神賜なりとして拝受し、行満の後この神枝を以て加持するにすべて所願具足し、修法成就したという。
日閑は身を持すること頗る厳しく平生麻衣、木綿服、粗茶淡飯、子に臥し、寅に起き日課の御経の外に法華経一部、唱題一万遍、祈祷経七返、寒暑に癈せず、改宗し、受戒するもの数万人といわれ、施物は受けず強いて贈れば孤貧に施すか、仏具を購って道場を荘厳したという。
常に衆に語って言く「修験の法は平等の慈悲を第一とし、一念も名利の心あらば必ず現罰あり」と後来をしめたという。
日閑は積一〇代中興となっている。
静岡県、三沢寺の貞光院日富、同一〇代勧持院日相は日閑について修法相承を受け三沢流を創立している。
日相は島根の大守松平伯耆守綱清の病気を祈ってあり、以後松平の外護厚く、幕末迄江戸大久保の法寺を江戸出張所として、三沢流の祈祷を盛んに行ったという。
日相が江戸本庄、最寺日遶に与えた「三沢流祈祷法を伝授し畢る」と記した延宝三年(一六七五)四月一二日の修法曼荼羅が現存し(玉沢妙法華寺蔵)、その裏面に「御祈祷伝受制法請文之事」が書かれているが、修法相伝に関する起請文としては最も古いものであろう。
また陣門流に伝えられる一説には、寛永の初めの頃、正中山二一世日現は彼の俗甥である伊豆蓮着寺住職の日遥に密かに「三十八筒条の切紙」を伝授したという。
蓮着寺の下の浦は「ささめが浦」といい、蓮着寺より出た陣門の修法の一流を「ささめ流」と称している。
身延山の東谷は七面山と相対しているためであろうか、当時ここに名もない小庵を結んで苦行するもの多く、まことに「修行者の谷」とでもいうべき処であろう。
承応二年(一六五三)この谷の修行者というのみで名も知られない小庵居住の東光院日春が、突如身延山より「身延山伝師」という職に任命されている(これは「伝師」という語の初見であり、またこれ以後身延山ではこの様な名称の伝師を任命していない)。
これは大阪高槻の一乗寺六世普明院日栄に身延山流の祈祷相伝をするためであるが、東谷での真摯な修行者等の様子が推察される。
この普明院日栄(一六一五-九三)は一乗寺五世普明院日宝(-一六二六)の弟子で山城伏見の人であり、寛永一五年(一六三八)池魚の難に遇い、それを機会に身延山東谷に籠り苦行し、行満後修法をもって布教各地に及び、所縁あって紀州公の帰依を被り、養珠夫人の外護も厚く、一乗寺の伽藍その他を再興し、また江戸芝金杉の正伝寺を始め癈寺十数ヵ寺を復興する等の功あり、一乗寺の中興なりという。
日栄はかねてから身延山所蔵の伝書の皆伝を得たいという志があったようで、この容易ならぬ秘法授受の悲願を養珠夫人に訴えたのであろう。
幸い夫人の聞き入れられるところとなって、夫人はこの身延山二六世智見院日暹に懇請されたようである。
養珠院の願いを入れた日暹は、身延山に伝承されていた多くの口伝書、切紙類をまず仙寿院日閑の弟子で、西谷檀林善学院学室の能化である知性院日遂に相伝して、その編集整備を命じた。
日遂はその意を受けて、相承項目を四、五項目宛にまとめて一巻とし、内容同様のものは「何々御苻守類集」という名称のもとに整理し、身延山伝師となった東光院日春に相承したのである。
日春は日栄にこの多くの伝書を伝授しているが、この相伝に至る準備期間は約一〇年位を要し、その間日暹は遷化し、養珠夫人も相伝を開始する約二ヵ月前に卒している。
伝授の場所は江戸某所と明らかにされていないが、この相伝には半歳以上を費してのことであった。
この頃は日閑も元気で「積日閑直伝」という切紙集を日栄に授けている。
なお中山にも養珠夫人の懇情はあったらしく、浄光院にて相伝とあり、「正中山法華経寺二十五通」という切紙集を日栄に伝えている。
後にこれらの相承を普明院流と呼ぶようになり、京畿方面の修法界智泉院流にも大きな影響を及ぼしている。
因に身延日暹は同二二世心性日遠の門人である。
また日暹の資で桑名の松平定重の病を祈って効あり、円妙寺の祖となった通明院日隆は、異色の弾指加持をもって知られた人であり、桑名流と称されたものである。
江戸文化の花開いた元禄期とその前後は修法布教も盛んに行われ、祈祷勲功の人々の中には抜群の力量を発揮した人があった。
唯観日勇(一六三九-九一)は、延宝三年(一六七五)三七歳の身延七面山に一百日間の参籠苦行を成じ、祈祷においては止観の観念観法こそ大切なりと自得し、唯観流を創唱し布教に効果を挙げた。
この流派は一は正中山流、身延山流と併称された程盛んであったという。
身延山三一世一円日脱(一六二九-九八)は、貞享四年(一六八七)身延山祈祷堂を建立すると共に三十六ヵを建て、その僧をして交替に昼夜不断に下泰平を祈念したという。
身延山三三世遠沾日亨(一六四六-一七二一)は、京都・満願寺を改宗させ、朝廷より国家安全、宝祚長久の祈祷を命ぜられ、以来毎年祈祷巻数札を献上し、身延山久遠寺と共に勅願寺の綸旨を受けている。
坊一二代満行院日順(-一七一六)は、一円日脱の命により仲秋名月にかかる暗雲を尺余の木剣で切り払い、身延山の名月供養会を成就せしめたという。
この雲切り木剣は身延山宝蔵に現存している。
日順は爾来雲切満行院と称されたが、前述の遠寿日久、ならびにその修法の師法性日諦の加行の指導者でもあった。
一道日法(一六五九-一七一九)は、一円日脱の弟子で初め身延山支院岸之二四代となり、後山梨県青柳昌福寺一二代に晋み中興となる。
京都に上り堀川本蔵寺に拠って、鴨川に一千日の荒行を積む、京都内外の人みな渇仰随喜し門前市をなしたという。
堂上の帰依も厚く霊元上皇を祈って偉験あり「経王祈祷所」の勅願を賜い、日蓮大菩薩の宸翰を拝領した。
また大験者上人の称号も得て修法益々達し、公武及び庶民の尊崇と信仰を集めたという。
京都本瑞寺の学僧、忍辱鎧日栄(後に本瑞寺に晋む)は感ずるところあって唯観流の修法相承を受け、享保一七年(一七三二)に『修験故事便覧』五巻を上梓、祈祷修法上の故事等を会通、詳解し、修法者の用心とし、拠り処としたもので、本宗の祈祷に関する初めての刊行本でもある。
以後明治に至るまで祈祷に関する出版本はない。
なおこの書は現在でも修験道において重く用いられその聖典の一つに数えられている。
江戸文化爛熟の文化、文政期、わが宗門の加持祈祷は士民の間に浸透し、加行所をもつ身延積善坊流智泉院流遠寿院流の修法が特に栄えたようである。
文化一一年(一八一四)身延積善坊流の第二の中興と称せられた、二二代普門院日憲(一七六〇-一八二九)は、滝に千日、川に千日、井戸に千日と三千日の行法を成満して種々の利生を現じたといわれ、文政二年積善坊を蓮華谷に移し積善坊流の祈祷を再興し、特に入行者を厳選して加行せしめているが、文政元年(一八一八)相伝のため本院宛に提出した相伝書借用目録(火災を恐れて伝書を本院預けとしたため)によると、相承の伝書は二〇数巻に及んでいる。
中山の円立坊も、この頃には既に遠寿院と改名昇格していたことは、現在遠寿院門前の石に「文政七年遠寿院再住大慈院」(日心と号し同院再々住となる)とあることによっても明らかである。
また文政八年四月新彫という、「正中山絵図」(日比谷図書館蔵)を見ると、遠寿院として智泉院と並んで描かれている。
しかし行堂は共に図示されていない。
惟うに、当加行は何回入行しても自行のための修行であり、当時はまだ「大衆法楽加持」という祈祷方式は両院共に感得されず、入行者はただ黙々と修行に励むのみである。
この行堂の別火苦行の静寂を破らぬためにも、当時の中山九五世勝心日亮は、あえて行堂の存在を示さなかったのであろう。
智泉院は、二〇代守玄院日啓(一七七一-一八四二)と二二代となった守院日尚の時、徳川一一代家斉の愛妾お美代の方並びに大奥女中の尊信厚く、特に日尚感得の九重敷符が有名で殷賑を極めていたが、幕府政権交替の粛清に巻き込まれ、保一二年(一八四一)一〇月、日啓は遠島、日尚は三日晒される難に遇って智泉院は閉鎖されたのである。
しかし、日啓はこれより先智泉院流の修法研究に力を注ぎ、従来の同院伝書「祈祷抄」五巻に遠寿院の『法華顕妙抄』の一部を取入れて、項目等を改組し『正中山相承御祈祷顕妙抄(鈔)』五巻とした。
特に五巻目は自己の感得せる祈祷法や修法上の見解をまとめてその特色を示している。
なお金沢市妙立寺蔵の保八丁酉年七月八日付三十番神勧請の木札に「中山加行八ヶ度而一千日成就。越中新川郷泊妙輪寺一九世大験者妙寿院日海花押」とあるが、遠寿院にこの記録が無いゆえに、これは智泉院行堂においてのことであろう。
院内閉鎖という厳しい処置を受けたものの、智泉院の行法を慕って窃かに入行するものが後を絶たなかったようで、嘉永四年(一八五一)一二月入行、相承を受けたものの伝書を見ると、、地、人に分けてある。
ち、
」=狐、咀、月水、疱瘡、其外諸病秘御符(苻)
「地」=生霊、引取、雨之祈、火伏其外諸病咒御符(苻)
「人」=死霊、引取守、其外諸病、祈念御符(苻)
とあって、何流にもない相承書である。
安政三年(一八五六)になると多少その取締も緩やかになったのであろうか、その年の相伝書は遠寿院の『法華顕妙抄』四巻をそのまま使用し、各巻の終りには智泉院日住花押と日住の名前を遠寿院日久のかわりに入れて伝授している。
このことが後、遠寿院日久と智泉院日住が共に法性院日諦に修法相伝を受けたと思われるに至るが、日住は寛文三年(一六六三)九月一三日寂し、この年に遠寿日久は生れているのである。
慶応に入ると、智泉院二七代妙院日良は「初行伝書」(主として遠寿院系統のもの)「再行伝書」(智泉院本来のもの)とに改組して相伝している。
遠寿院の相伝書は日久の書写以来幕末迄そのまま相承されていたが、嘉永元年(一八四八)同院二三代妙竜院日逞(-一八五八)によって、日久の享保五年(一七二〇)書写の傷みの甚だしい原本を改めて筆写し、その際省略する箇所もあり、また剣形揚枝の項では「真体法剣」と称する揚枝木剣を創案補足している。
物情騒然たる幕末の慶応三年から明治四年迄、遠寿院は休堂したと伝えられているが、この慶応四年(一八六八)四月一〇日、中山法華経寺門前より出火し、山門、智泉院、遠寿院外一一箇及骨堂を烏有に帰して、明治維新を迎えたのである。

さて、次に明治の修法について述べることにしよう。
明治維新の年に被災した遠寿、智泉両院の復興は、共に早かったようである。
身延山積善坊は明治三年火災に遇い全焼しているが、諸般の事情によりこの年から積善坊の加行所は休堂の止むなきに至ったという。
明治二年(一八六九)の初行、再行の伝書が残っている智泉院は、同七年自火を出し、読経堂のみを残して再び焼失した。
その後大方の協力によって「同一一年上棟式を挙行せしも、当日突然の強風に襲われて柱、組倒壊し爾来遂に建たず。
幸い読経堂残りしため廃寺をまぬがれて明治末年に至り復興再建せり」という。
遠寿院は明治五年から再び開堂して順調であった。
しかし明治初年に興った廃仏毀釈の暴論の余波を受け、修法祈祷のこと全廃との風聞あり、遠寿院二五代朝田日光(一八四五-七九)は中山一一二世河田日因((一八二九-九九)と共に部省に建白書を上申するなど、熱心に運動し、その効あって、このことは沙汰止みになったという。
明治六年一月一五日部省より「従来梓子、市子、並憑祈祷、狐下ケ杯ト相唱玉占、口寄等ノ所業ヲ以テ人民ヲ眩惑セシメ候儀自今一切禁止候(略)」という狭義の祈祷、並にその所作に対する制約があったため、このことが一般の加持祈祷にも及ぶのではないかと心配されていたところ、翌七年六月七日教部省は「達書乙第三十三号」を発布し、「禁厭祈祷等の儀は神道諸宗共人民の請求に応し従来の伝法執行候は元より不苦筋に候処間には之が為め醫療を妨け湯薬を止め候向も有之哉に相聞以の外の事に候(略)」とあって、従来より行われていた祈祷修法に対する公許があった。
なお文中の医療の妨げとなる行為禁止の法令は、爾後、再三にわたって出されている。
伝法執行の公許を得た河田日因は、朝田日光と相い諮って二年後の明治九年五月八日加行規則並順序等の法制を改正し、管長新居日薩(一八三〇-八八)に届出てその許可を得ている。
この規則は「法制」・「加行規則並順」・「追加」の三章よりなっている。
「法制」は三ヵ条あって、験者の心構え、覚悟などの大綱を示したものである。
また終りには、明治九年五月、伝主正中山住職河田日因、副伝主遠寿院住職朝田日光となっている。

 加行規則並順は、第一項に
加行期限毎歳十一月一日ヲ以テ開堂トシ二月十日ヲ以テ閉堂トス
   但伸縮不許
と、加行に当り入行、出行の期を始めて法制化し、これは現在も変っていない。
その第二項は入行願書の提出の手続順を示したもの。
第三項は成満後、学歴によって修法席において袈裟の相違があること、第四項は成満後は管長より、化他布修の許可を受けること、第五項は在家に止宿し、法場を開き祈祷致すべからず、第六項は各地方において祈祷修法する時は管内教導取締へ届出ること。
届出ない加行者といえども無相伝の者として処分すること、第七項は加行者は毎歳各地方教導取締へ姓名書を回通し取締向依頼のこと、第八項は無相伝の者は勿論、加行者も護法の念無く、布教に患害を醸し、信徒を蠱惑するものは門下より除くとあり、験修伝道中山法華経寺とある。
またその追加は、
 一毎歳二月十日東京府下ニ於テ常師報恩講ヲ開キ在京ノ験者ハ必ス出席スベシ
 一門下ノ者ハ行堂修繕料金五拾銭ヲ毎歳四月マテに納ムベシ
 一行堂退去ノ後三十日ヲ限リ必ズ剃髪スベキコト
等の厳しい規則が定められた。
この様に活発に動き出した修法界の指針として、明治九年東京白山大乗寺の鶏渓日舜は、(彼は宮中に参内修法している)問答体の修法解説書『祈祷故事略旨』を著して、修法重要事項を解説し、同一〇年正月河田日因は「行者十題略説」を説いて修法者の心構え等を一〇項目示している。
越えて同一一年正月、新居日薩は師の優陀那日輝の著『祈祷肝文鈔』二巻を出版したが、日輝は病気などの修法的な解釈を述べ、修法には五種の因縁即ち仏力・法力・念力・信力・行者平生修行の力のこの五種が具足すれば法性の不思議を生ずとし、慈悲心をもって加持すべしといい、行者の修行をすすめ、祈祷に関する法華経の依文を挙げて解説している。
同じ一一年八月一六日には修法者規則一一条目を定め、主として修法者の心得を示している。
明治一二年(一八七九)、加行所規則制定に勲功のあった朝田日光が寂し、同一三年、喜多村日修が遠寿院に入っている。
加行所は年を追って入行者の数が増え、明治一七年は、三行一名、再行六名、初行二七名、計三四名の入行者があった。
この年喜多村日修は加行規則を改正し、権小講義以上、一ヵ寺住職者をもって入行資格を定めた。
明治二一年には明治の新制による初めての五行僧があり、この年再行堂が新築されている。
これ迄は初行と先輩行僧は同じ堂内ち荒行堂で加行していたのであった。
再行堂というのは現在の先輩寮というのと同じで、この当は四行のことを再四行、参行のことを再参行と称していた。
ただ三行となるのは明治二六年からである。
明治二二年(一八八九)一月斎藤巍鑒は『法華験家訓蒙』六巻を出版し、祈祷故事の新解釈等を示して修法者の知識に備え、祈祷実践に益したのである。
明治二四年二月、出行に臨んだ加行僧二五名は、連署して左の如き請願書を加行所に提出している。

 第一条 行堂ノ規律ヲシテ完全ナラシムルコト
 第二条 地方に修験者取締ヲ置イテ監督ヲ厳ニスルコト
 第三条 将来副伝師ハ学徳兼備之師ヲ験者中ヨリ撰抜スルコト
 第四条 副伝師ヲシテ方丈務ニ関係セシメザルコト
以上四項目の請願であったが、副伝師喜多村日修はこの請願を採上げて検討したようである。
明治二六年になると、日修は再び修法規則を改良し、権中義以上、法臈二〇年以上を入行者の資格とし、また修法の地方取締を設けて、同年六月八日には全国三六名の験者にその辞令を下付している。
この「修法取締規則」は、中央取締と地方取締に分けて全べて一二項目あり、その内容の一部を示すと(取意)「中央取締は加行願書の精密なる調査」、「地方取締は管内に於て常師報恩会を修し管内修法者を必ず出席せしむべし」、「地方取締は加行志願者あらばよく調査し、有資格者は懇篤に指導のこと」、「無相伝の者の取締のこと」、「地方取締は毎年修法者連名表を中央取締へ届出のこと」等が指示されている。
明治三〇年一一月一三日には荒行堂に付属した行堂(寮)が新築されて入行者の増加に対処している。
明治三一年、荒行堂屋根替えと諸堂修がされ、座敷も新築されている。
この年の出行者は、五行五名、四行三名、再行八名、初行三五名、計五一名であった。
爾後日露戦争の明治三七年、三八年は別として毎年五行が出ている。
同三二年、喜多村日修は京都本山頂妙寺へ晋み、山田日然が遠寿院に住した。
同三六年頃の加行所は(中山史参考)今の読経堂が初行堂で、三〇畳敷きで正面に鬼子母尊神を祀り、堂の南には水行場があり、井戸水を水かめ二個にたたえ、この「かめ」に「一道清浄」の四字が刻まれていて、水行時間にはかめに水を汲み入れる奉仕をしていた由で「水伝」と愛称された(水行伝師という意味であろうか)老爺がおり、初行は専らこの「水伝」に水行の所作等を指導されたという。
水行場の傍らに炊場があり、初行堂の前に再行堂があり、その奥に一〇畳の五行堂があった。
行中荒筵に坐することは、読経堂は勿論のこと寮内でも敷いていたが、寮内の荒筵は昭和二六年頃まで続いた。
明治一〇年から同二〇年代以降における伝書相承の様子は、明治二一年に五行が一名あったものの、内外変遷の激しさと行僧増加の対策にまぎれて、伝師部としては「行」相応の伝書を整備し、行僧に授受相承する迄には到らず、行僧各自が伝師部にある伝書を選んだと古老は伝えている。
その言葉の通り、当加行僧の中には遠寿院流の伝書を写し、その上智泉院流の伝書も書写しているものもある。
また『法華顕妙抄』は本来四巻であるのが他の伝書を加えて五巻としているものもある。
これが明治三〇年頃の期に正伝師浜日運副伝師山田日然、原木妙行寺石井日淳外三、四名を加えて「伝書改訂委員会」ともいうべき会が組織されて、各行に授与する伝書の整備をしたという。
この改訂完了の記念写真が原木山妙行寺に秘蔵されている由(故仲北日誠談)。
改訂後の『法華顕妙抄』はただ『顕妙抄』のみとなって「法華」の二字が削られている。
明治三一年書写の『顕妙抄』は四巻で「法華」の字は題号にはないが、各巻末に『法華顕妙抄』となって残っていて、改訂過渡期が知られる。
またその内容に変化はない。
同三八年相承の伝書は『顕妙抄』となり、四巻が七巻となり内容も組み換え省略されているところもあり、法華の二字もなく明らかに改訂されていることが解る。
明治三二年頃の水行肝文は「水行言上肝文」とあって現今のものと大同ではあるが若持法華経ないし増益寿命の前文がなく直ちに「謹敬テ言上シ上ル(略)」となって文章に少異がある。
水行時間は午後之部の最終水行が午後十となり、午後十一就寝となっている。
日課の御経は現在と殆ど変らない。
これによってみると、明治三〇年代には加行所の行規等は完成されていたと考えられるのである。
ただ現在のような法楽加持がいつ頃からできたのであろうか。
中山史は、明治三六年、既に法楽加持が出行に際し正中山本院で執行されていることを報じている。
前述の明治九年の『祈祷故事略旨』に「木剣と数珠を重ねて用いる云云」とあり、同二二年の『法華験家訓蒙』にも「木剣と珠数闔々相撃つ」として既に木剣と数珠をもって加持祈祷が行われていたことが解る。
しかし修法者が揃って同一九字を切り、肝文を唱えて加持したとは思われない。
この二二年代にはまだ祈祷肝文が一つに統一されていないことは、明治三三年書写の伝書に『当家加持肝文』『五段惣肝文』『肝文惣通』の四種類を挙げていることからも明らかである。
これらの肝文の内の『肝文惣通』二種が現在の『祈祷肝文』に全同であるが、四種の肝文とも「元品ノ無明ヲ切ル大利剣。生死ノ長夜ヲ照ス大燈明」という冒頭の句は記されていない。
その上、この句に続けて「木剣ノ木ハ勝軍木、ヒイラ木、桃ノ木、シキビノ木、右四通リ吉」としてあるのを見ても、「ヒイラ木」以外の木剣は数珠で打って音質が低いため法楽加持には不適当と考えられ、この四種類の木剣が良しとされる以上、この時はまだ大衆法楽加持はなかったと思われるのである。
この冒頭の「切元品無明(略)」の句の「捨九字」は明治三四年頃感得され、丁度縺れた糸を解く様に前段九字が開発されたのであろう。
今日でも残っている口碑には「始めに払い九字の前段が出来、しばらくして留九字の後段が出来たが、後段は九字の打ち方が種々あり、大正の初めと現在とでも多少の相異があった」と伝えている。
この様に、修法の先師は数多い修法繰文(繰返し読誦する祈祷要文)、祈祷要句の中より選び出した祈祷肝文に、九字、木剣を当てはめ、個人の修法を含めながら、大衆祈祷の法楽加持へと一歩一歩前進し、近代祈祷法の完成に努力して今日に至ったのである。
(加藤瑞光)

図版

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