南条賜書
南条賜書
なんじょうししょ
富士上野の南条一族への賜書はここでは「定本遺文」第三巻の「対告別消息索引」の通数五二書に関連書三通を加え総計五五篇を数え、人別にすれば南条兵衛七郎あて一書、後家尼御前あて一〇書、南条七郎次郎時光あて三八書、南条平七郎あて一書、その他二書である。
南条兵衛七郎は駿河国富士郡(現・富士宮市)上方荘上野郷の地頭、北条家の家人にして鎌倉在勤中に日蓮聖人に帰依、文永二年(一二六五)三月八日幼い時光と懐妊中の七郎五郎を遺して死去、寿不詳。
後家尼御前はその妻、松野六郎左衛門の娘。
南条七郎次郎時光は兵衛七郎の次男。
長男は七郎太郎といい、文永一一年八月一〇日、一八歳のとき水死した。
時光は壮にして任官して次郎左衛門尉と称し、老年に入道して沙弥大行と称す。
父跡を継いで上野郷の地頭となり、左衛門太郎から左衛門七郎までの七男と乙若・乙次の計九男と四女をもうけて多福。
幼にして父を失ってのちは母の訓育を受け、信仰も次第に増長し、聖人身延入山ののち初めて文を通じ、それより母子心を合せて益々熱烈な信仰に入る。
身延の聖人との間に使者の往復門下中で最も繁く、従って供養の最も多かったのは鎌倉の四条氏と上野の南条両氏であった。
南条氏の住んだ上野郷と身延とは一日里程で、地理的条件もよかったから、四季折々の収獲を家僕に持たせて、聖人の生活を助けまいらせたのである。
熱原法難の時は同信を後援して幕府の弾圧を受けたが、毅然として動ぜず、不退の強信を聖人から称賛されたことも再三に及んだ。
正応元年(一二八八)日興身延を離山した翌年、日興のために一宇を建立してこれを迎え、外護の功を積んで今の大石寺の規模を定めた。
下条の邸(いまの妙蓮寺下辺の地)にて正慶元年(一三三二)五月一日死去。
七〇余歳。
南条九郎太郎は一説には南条兵衛七郎の弟の長男、つまり時光の従兄弟ともいわれる。
経歴等不明。
南条平七郎は日興の『弟子分与帳』には「駿河国富士上方成出郷給主南条平七郎の母尼は越後房(日弁)の弟子なり」とある。
詳細は不明。
→歴 うえのし(上野氏)
(一)南条兵衛七郎殿御書(なんじょうひょうえしちろうどのごしょ)(三八)=真蹟断片一二紙一一ヵ所散在、文永元年一二月一三日付、小松原法難の翌月の書簡にして、同法難に関する最も生な記述、感想が述べてある。
→なんじょうひょうえしちろうどのごしょ(南条兵衛七郎殿御書)
(二)上野殿後家尼御返事(うえのどのごけあまごへんじ)(三九)=真蹟なし。
行学院日朝写本身延蔵。
従来は一般に文永一一年に系年されていたが『昭和定本日蓮聖人遺文』(以下定遺)は文永二年の七月一一日に系く。
初めに供養物に対する礼言、次に弔辞に寄せて兵衛七郎殿は法華経の行者であったから、宝塔品の「若有能持即持仏身」の経文によれば即身成仏疑いなしと慰労し、三に正しく即身成仏の法門を説く。
地獄も浄土も「ただ我等がむねの間にあり」と悟るを仏といい、迷うを凡夫というが、我らは法華経によってこれを悟る故、故聖霊は地獄の苦も脱れておられるに違いないと。
第四に弔慰と追善供養の勧めを述べて終る。
その弔辞は夫を失って間もない妻を慰めんとする情感にあふれた文であり、兵衛七郎が文永二年三月の死去なら、同年の七月に系けるのが至当と思われる。
しかし文中「霊山浄土」を説く点、また全篇にみなぎる「即身成仏」は文永二年に系けたのでは早すぎる感もなくはない。偽撰説があるゆえんである。
(三)薬王品得意抄(やくおうぼんとくいしょう)(四一)=真蹟一〇紙断片現存、第一~一〇紙(但し第二~四紙欠)計七紙千葉県保田妙本寺蔵、第一一紙一〇行某氏蔵、第一二紙前七行長崎県本経寺蔵、第一二紙後半約八行埼玉県妙顕寺蔵。
第一三紙以下欠。
題は御自題。
系年に弘安三年説(境妙庵御書目録・日諦の祖書目次・本化高祖年譜・新定祖書目録攷異)、建治年中説、文永二年説(日明の祖書目次)の三説があるが、真蹟鑑定の結果、定遺は文永二年に系く。
宛名について上野時光殿女房宛説(境目)と大学三郎殿内室宛説とあるが、末尾欠失の現在、両説とも証拠不明。大部分の真蹟が保田妙本寺に伝わる事実は、両説のうち上野時光殿女房宛とする説の方が妥当。
ただし文永二年は南条時光はまだ五歳に満たぬ幼年にて、妻帯にはまだ早く、あるいは時光の母尼への賜書か。
未詳。
(四)上野殿母尼御前御書(うえのどのははあまごぜんごしょ)(七四)=真蹟二紙完、熊本本妙寺蔵。
系年に建治元年の御筆とする説(縮遺)もあるが、本書は『金吾殿御返事』(七三)と全く同趣の書簡であること、真蹟鑑定の結果とから、定遺は文永七年一二月二二日に系ける。
本書は時光の母尼が白米一斗を鎌倉の聖人に奉ったことに対する礼状で、初めに母尼の信心深きを悦ぶ端書あり、次に大師講に元旦より止観第五の講義を始めたが、註釈書がないので「御計らひ候べきか」と依頼し、白米一斗供養の礼言、「蒙古の勘文」の到来により日本国に法華経の広宣流布の「願や成熟せんとし候らん」と示して終る。
(五)上野殿御返事(うえのどのごへんじ)(一四七)=真蹟二紙完、水戸久昌寺蔵。
書首の語に因んで「鵞目十連書」「鵞目一緡書」ともいわれる。
文永一一年七月二六日付、五三歳。
南条時光あての第一賜書。
身延の沢の草庵に落着かれてから約四〇日目に当る。父兵衛七郎追福のために捧げた供養物に対する礼状。
南条家とは「かまくらにてかりそめの御事と」思いしに「をもひわすれさせ給ざりける事申ばかりなし」。
「今年のけかちに、はじめたる山中に」不如意のほど思いやらせ給えと。
文中「御はかにまいりて候しなり」とあるのは、『春之祝御書』(一六一)に「わざとかまくらよりうちくだかり、御はかをば見候ぬ」(定八五九頁)とあり、文永二年中のことかと思われる。
(六)上野殿御返事(うえのどのごへんじ)(一五三)=真蹟なし。
日興写本、富士大石寺蔵。
文永一一年一一月一一日付、南条時光あて。
書首の語に因んで「聖人二管鈔」「二管鈔」ともいう。
清酒二管、ときの野菜等五品を供養されたのに対する礼状。
釈迦仏を供養するよりも末代の法華経の行者を供養する功徳の方が勝れていることを経文を引いて示し、次に蒙古襲来のことより、念仏は亡国の悪法、禅は天魔の所為、特に真言宗こそ亡国の悪法であることを漢土の例、日本の承久の乱等の例を引いて示す。
(七)春之祝御書(はるのいわいごしょ)(一六一)=真蹟三紙(末尾の日付宛名自署花押の紙は欠)富士大石寺蔵(重要文化財)。
文永一二年正月下旬に系く。
春の初に当り、聖人自身かつて南条兵衛七郎の墓を弔問し、今度身延に赴く途中、再訪しようとして果さず、弟子を墓前に遣わして自我偈一巻を読誦させる旨を報じた御消息である。恐らく南条兵衛七郎の後家尼にあてたものであろう。
(八)上野殿御返事(うえのどのごへんじ)(一七七)=真蹟なし。
日興写本、富士大石寺蔵。
文中「御造営と申し」云々とあるに因んで「造営書」ともいわれる。
南条時光あて。
系年は境妙庵目録・録外考文は建治二年あるいは弘安二年といい、浅井要麟は文中に大宮造営に関する語があるところから、弘安二年に系けるべきか(『昭和新修』遺文解題)というが、決定的でないところから、定遺は『高祖遺文録』・『縮遺』にならって建治元年(一二七五)の五月三日に系く。
ほし芋一駄送られたに対する礼状。
阿那律の本事を引いて供養の功徳の深大さを説き、余の人の制止に屈せず、法華経の信仰を貫徹すべきことを誡めておられる。
(九)南条殿御返事(なんじょうどのごへんじ)(一八五)=真蹟第二―四紙の三紙、富士大石寺蔵(重要文化財)。
第五紙前半の日付・宛名・自署花押まで東京師子王文庫蔵。
第一紙及び第五紙後半の追伸の部分欠。
日興写本、富士大石寺蔵。
系年については異説もあるが、日興写本に建治元年と加筆され、その七月二日付。
南条時光あて。
南条氏が捧げたる白麦・小白麦各一俵等の供養に対する礼状。
阿那律・大迦葉・釈摩男・金粟王の故事を挙げて、供養の功徳を説く。追伸は日興の写本にあり、所領などを顧みず、信仰を持続せよ。蒙古への防備に筑紫に赴く人の身を考え合せなさい。これは上が日蓮を軽んじて起した事であると。
南条氏が熱原事件に関連して幕府の圧迫を蒙り始めた状況を連想させる文である。
(一〇)単衣鈔(ひとえぎぬしょう)(一九三)=真蹟なし。
日朝写本、身延蔵。
文中「今年五十四に至るまで」とあり、建治元年八月の作。
南条時光の母尼にあて。
追書に「此文は藤四郎女房と常により合て御覧あるべく候」とあるに因んで「藤四郎女房書」ともいう。
単衣一領の供養に対する礼状。
棄老国では老者を捨てる、日本国では法華経の行者を捨てる。「法華経の故に日蓮程人に悪まれたる者はなし」とて、二〇余年の忍難弘通を点示し、また藤四郎女房から送られた単衣は法華経の行者に奉られたものであるから、六万九千三百八十四の仏に着せ奉るものであると、その供養の功徳を述べる。
(一一)上野殿御消息(うえのどのごしょうそく)(二〇二)=真蹟なし。
本満寺録外写本、京都本満寺蔵。
系年は境妙庵目録に弘安四年(一二八一)とあるが、日明目録に建治元年と考えてのちは、この説に従う。
南条時光あて。
録外御書には「本門取要鈔」、三宝寺録外には「四恩御鈔」、高祖遺文録解題には「持法華報恩鈔」とある。
外典の四徳、内典の四恩を解説し、女人成仏を説くこの法華経によってこそ妙法経力によって父母の恩を報ずることができると教え、また「心を翻へさず一筋に信じ給ふならば現世安穏後生善処なるべし」と勧誡する。
(一二)南条殿御返事(なんじょうどのごへんじ)(二〇六)=真蹟なし。
日興写本 富士大石寺蔵。
日付の「正月十九日」に「建治二年到来」と日興註記。
南条時光あて。
また頭書に因んで「春始書」「初春書」ともいう。
初春の種々の供養に対する礼状。
勧発品の「所願不虚亦於現世得其福報」「当於今世得現果報」の経文を引き、慈父聖霊は仏前に詣り、貴殿は現世に大果報を招くこと疑いなしと、供養の功徳を賞さる。
(一三)南条殿御返事(なんじょうどのごへんじ)(二一〇)=真蹟なし。
本満寺録外写本、京都本満寺蔵。
建治二年三月一八日付、南条時光あて。
時光および橘三郎・太郎大夫より種々の供養を受けたことに対する礼状。
自分で法華経を読誦・書写しなくても、法華経の行者を供養すれば成仏疑いなしと、供養の功徳を説かれる。
追伸にこの書を日興殿が他の二人にも読んであげられよと。
(一四)南条殿御返事(なんじょうどのごへんじ)(二一五)=真蹟は全二二紙中第二一紙の一紙を欠失、富士大石寺蔵(重要文化財)。
建治二年閏三月二四日付、南条時光あて。
また「大橋太郎御書」ともいう。
帷子一枚、塩一駄、油五升供養に対する礼状。
時光の故父聖霊への孝心の厚いことを称讃するに、大橋太郎の一子一妙麿が法華経読誦の功力によって、父の一命を助けたという、頼朝当時鎌倉に起った実話を詳述して例証とすると共に、蒙古再来の懸念ありとの時光からの報せに対しては「これを申せば、日蓮房はむくり国のわたるといへばよろこぶと申す。これゆわれなき事なり」と断っておいて、国の謗法を歎き、時光等の信仰を励まして終る。
(一五)九郎太郎殿御返事(くろうたろうどのごへんじ)(二二九)=真蹟なし。
日朝写本、身延蔵。
建治二年九月一五日付。
南条氏の一族の九郎太郎あて。
里芋一駄供養に対する礼状。
身延山の幽棲を述べ、供養の芳志を賞められる。
(一六)本尊供養御書(ほんぞんくようごしょ)(二三四)=真蹟なし。
建治二年一二月日付、南条平七郎あて。
平七郎の伝記不明。
一説に南条氏は平氏であるから、平の七郎、七郎次郎時光のことであるともいう。
法華経本尊供養の僧膳料として米・里芋一駄を送られたのに対する礼状。
法華経の文字は皆仏なり、法華経を受持すれば「法華経の不思議」にて「凡夫を仏に成し給ふ」と。
(一七)上野殿御返事(うえのどのごへんじ)(二四六)=真蹟断片六紙現存。
三行断片東京笹間繁氏蔵、一行断片千葉随喜文庫蔵、六行断片東京白石章子氏蔵、第一〇紙一四行富士大石寺蔵、第一二紙初三行断片京都寂光寺蔵、八行断片静岡大泉寺蔵。
日興写本富士大石寺蔵。
末尾「五月十五日」に「建治三年到来」と日興註記。
南条時光あて。
時光は身延の聖人に「日蓮房を信てはよもまどいなん、上の御気色もあしかりなん」と方人顔して自分を教訓する者ありと報告し、併せて里芋一駄をを供養してきた。そのことに対して与えられた御返事。
中国・印度の例を挙げて善事には障害が多く、まして仏滅後に法華経を修行する者には釈尊の九横の難以上の怨嫉があると法師品に書いてあるが、像法の天台・伝教には小難のみであった。末法の日蓮には大難が起こり、しかも檀越に対して今や法華経を捨てよと軟言もて教訓する輩に当面したが、殿が退転するならば「するがにせうせう信ずるやうなる者も、又信ぜんとおもふらん人々も皆法華経をすつべし」、また殿の信仰は「故父の御ため」であるぞと、信心を励まされる。
(一八)上野殿御返事(うえのどのごへんじ)(二五二)=真蹟二紙完、第一紙富士大石寺蔵、第二紙京都要法寺蔵。
「七月十六日」に「建治三年」と日興註記。
南条時光あて。
また文中「をゝみやのつくられさせ給へば」に因んで「営宮書」「造営書」ともいわれる。
種々供養に対する礼状。
公私多忙の砌、「山のなかのすまい」を慮って、よく「法華経の御いのちをつがせ給事」を「尊しとも申計なし」と感謝さる。
(一九)庵室修復書(あじちしゅうふくしょ)(二六八)=真蹟四紙断、身延曽存。本満寺録外写本、京都本満寺蔵。
建治三年冬。
宛名は不明であるが、本満寺録外には「九郎太郎殿御返事」とある。
身延山入山四年目、庵室は大破して風雨凌ぎ難く、人夫なくて弟子たちが雪で飢えをしのぎつつ修復していた折、さきには上野殿から芋二駄、今また一駄の御供養に与り、宝玉よりも貴かったと。
(二〇)大白牛車書(だいびゃくごしゃしょ)(二六九)=真蹟なし。
建治三年一二月一七日付、南条時光あて。
録外御書巻五では前の『庵室修復書』と接続して一連のものとなっていたのを、『日明目録』が先ず分離し、この智英日明の仕事を高祖遺文録は分けて二篇とした。
法華経の法門を譬喩の大白牛車に譬えて、本迹二門は車の両輪、妙法蓮華経は白牛、信心はくさび、志は油、これらにより霊山浄土に詣られよと。文末に伝教大師偽撰・中古天台作の『牛頭決』の一文が引かれる。
(二一)上野殿御返事(うえのどのごへんじ)(二七六)=真蹟なし。
日興写本、富士大石寺蔵。
建治四年二月二五日付、南条時光あて。
書首の語に因んで「蹲鴟御消息」ともいわれる。
里芋・串柿・焼米・栗・筍・酢等の供養に対する礼状。
阿育王は前生に童子として土餅を仏に捧げて今生に大王となった故事に例して、御供養の功徳を賞し、火の信心よりも「いつもたいせず信ずる」水の信心が肝要であると誡める。
(二二)上野殿御返事(うえのどのごへんじ)(二八二)=真蹟なし。
日興写本、富士大石寺蔵。
「四月一日」に「弘安元年」と日興註記。
南条時光あて。
章首に因んで「上野白米書」、文中に「今末法に入ぬれば余経も法華経(の読誦)もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」とあるに因んで「法要書」ともいわれる。
重須の地頭である石川新兵衛入道(孫三郎の父)の姫御前の突然の死去の報知、並びに白米・いも・こんにゃく供養に対する御返事。
石川入道の娘が臨終に南無妙法蓮華経と唱えつつ死去したことを随喜し、爾前は不成仏の教、法華経は成仏の教であり、今末法に入ればただ題目に限ると明断される。
(二三)南条殿女房御返事(なんじょうどのにょうぼうごへんじ)(二九〇)=真蹟なし。
日興写本、富士大石寺蔵。
弘安元年(一二七八)五月二四日付、時光女房あて。
文初の語に因んで「南条殿八木書」「八木書」ともいう。
白米二俵を供養された礼状。
山河の難路を越えて度々の法華経供養の功徳を積み、必ず竜女の跡を継いで成仏されるであろう。兼ねて所労の石川入道の姫御前も臨終正念であったから、霊山浄土疑いなしと。
(二四)時光殿御返事(ときみつどのごへんじ)(三〇〇)=真蹟なし。
日興写本、富士大石寺蔵。
「七月八日」の日付の上に「弘安元年到来」と日興註記。
南条時光あて。
麦一駄・しょうがの供養に対する礼状。
国主からの憎まれといい、今年の疫病・飢渇といい、身延に訪れる人もなく、山中にて飢死の外なしと覚悟していたところへの御供養、金にも珠にもすぎて貴いと、阿那律・迦葉・利吒の例をあげて感謝される。
(二五)上野殿御返事(うえのどのごへんじ)(三〇六)=真蹟なし。
延徳年間(一四八九-九二)古写本、京都妙蓮寺蔵。
弘安元年九月一九日付、南条時光あて。
塩一駄供養に対する礼状。
頭書に因んで「塩一駄書」ともいう。
七月以来の長雨にて塩気が全く絶えたところへのこの供養、その悦びは「予が言は力及ぶべからず、ただ法華経と釈迦仏とにゆづりまいらせ候」と。
(二六)上野殿御返事(うえのどのごへんじ)(三一四)=真蹟。
日興写本、富士大石寺蔵。
日付の「後十月十三日」の上に「弘安元年」と日興註記。
南条時光あて。
里いも・蜜柑・ござむしろ十枚の供養に対する礼状。
頭書の文言により「柑子書」ともいう。
夏の初めは豊年だったのが、八-九月の大風大雨で寛喜・正嘉以上の凶年となり、その上、日本国中に疫病流行。この刻にかくも法華経の行者を養われるは「いかなる宿善にか」と感謝される。
なお、日付「三」は日興写本は「二」のようである。
(二七)九郎太郎殿御返事(くろうたろうどのごへんじ)(三一七)=真蹟四紙のうち初二紙、身延久遠寺現存。
弘安元年一一月一日付。
南条九郎太郎あて。
季節の種々の生果の供養に対する礼状。
末の世には曲れる木、低き草のみ生えるように、念仏や律を信ずる人は多いが、法華経をたのむ人は少ない。しかるにおのおのは故上野殿の「末」としてその信仰を継いで、法華信仰をなさる。法華経供養は仏を供養するに勝るのであるが、汝は「身貧にして下人なし」という身で法華経供養をされるのであるから、今生、後生ともに利生に与ること疑いなしと。
(二八)上野殿御返事(うえのどのごへんじ)(三二五)=真蹟四紙断存。
第一紙初三行、京都妙覚寺蔵。
第二紙初七行、広島妙頂寺蔵。
第二紙後半六行、大阪八代祐太郎氏蔵。
第四紙九行、京都本法寺蔵。
第一紙の冒頭余白に「弘安二年五月三日」と日興註記。
南条時光あて。
正月の用にと餅九〇枚、山の芋五本の供養に対する礼状。
去年七月以来の飢渇、一一月以来の身延の雪の中に、正月早々の御供養を悦び、故父上にもました信心を賞嘆さる。
(二九)上野郷主等御返事(うえのごうしゅとうごへんじ)(三二六)=真蹟形木一紙完、高知要法寺等蔵。
弘安二年正月一一日付。
上野郷主南条時光らの殿原あて。
餅二〇枚の供養に対する礼状。
今生、後生の利生疑いなしと賞められる。短文ながら、めでたさが文面に横溢している。
(三〇)上野殿御返事(うえのどのごへんじ)(三三〇)=真蹟なし。
日朝写本、身延蔵。
弘安二年四月二〇日付、南条時光あて。
文中「杖木瓦石」(定一六三五頁)とあるに因んで「杖木書」ともいう。
法華弘通により諸難に遭ったが、特に竜口の時、少輔房が法華経の巻五で余の顔を打ったことは無念だったが、この「逆縁の功徳」により遂には成仏を得るだろう。次に五巻の中の提婆品、勧持品、涌出品の要点を述べて、法華経力、日蓮慈力は逆縁すら成仏させる。況や殿の如き順縁をやと、信心を策励される。
(三一)上野殿御返事(うえのどのごへんじ)(三三八)=真蹟なし、日興写本、富士大石寺蔵。
日付の「八月八日」に「弘安二到来」と日興註記。
南条時光あて。
頭書の字に因んで「鵞目書」、文中の意に因んで「草木二乗闡提成仏事」とも呼ばれる。
種々の供養の送物に対する礼状。
法華経は草木成仏・二乗成仏・闡提成仏の経なり。況んや心ある人、生種の人、信ずる者をやと説いて、信心を勧められる。
(三二)上野殿御返事(うえのどのごへんじ)(三五〇)=真蹟五紙完、富士大石寺蔵(重要文化財)。
弘安二年一一月六日、南条時光あて。
頭書に因んで「龍門御書」、宛名に因んで「上野賢人書」とも呼ばれる。
熱原の法難が時光から身延に報じられたに対する御返事で、成仏は龍門の滝を登るよりも、平氏が三代にして漸く昇殿を許されたよりも困難である。「願くは我弟子等、大願ををこせ」、「をなじくは、かりにも法華経のゆへに命をすてよ」と励まされる。
宛名の真蹟は、はじめ「上野聖人」と書し、のち「聖」の上に「賢」と書さる。尊称をと願われたが、俗人に対して聖人では不適当と思われたか。
(三三)上野殿御返事(うえのどのごへんじ)(三五七)=真蹟四紙完、富士大石寺蔵(重要文化財)。
日付の「十二月廿七日」の左下「弘安二年到来」と日興註記。
南条時光あて。
白米一駄供養に対する礼状。
念仏・禅・真言・律を信ずる世に法華経を弘めるから、万民に憎まれて山中に居る。「天いかんが計らせ給らむ」と見ていると、五尺の雪降り、訪れる人もない山中で「食たへて命すでにをはりなんとす。かかるきざみに、いのちさまたげの御とぶらい」、「たうとくめでたき御心かな」と悦ばれる。
(三四)上野殿御返事(うえのどのごへんじ)(三五九)=真蹟初五字断片、京都本圀寺蔵。
弘安三年正月一一日、南条時光あて。
むし餅・清酒・やまいも・蜜柑・串柿の大量の供養に対する礼状。
春の初の三日、これらの供養品を法華経の御宝前に捧げた。元三の御志は元一にまさると、満月の如き慶びを披瀝さる。
(三五)上野殿御返事(うえのどのごへんじ)(三六三)=真蹟なし。
本満寺録外写本、京都本満寺蔵。
弘安三年三月八日、南条時光あて。
内容に因んで「弔書」ともいう。
故父南条兵衛七郎の命日の追善のための僧膳料として米一俵供養したに対する礼状。
御仏にお供えして自我偈一巻読み参らせた、とて外典・内典・法華経の孝養を説き、「貴辺は日本国第一の孝養の人なり」と讃めらる。
(三六)上野殿御返事(うえのどのごへんじ)(三七二)=真蹟初三紙、富士大石寺蔵(重要文化財)。
弘安三年七月二日、南条時光あて。「五郎書」ともいわれるのは、時光の弟の七郎五郎あてとの見解による。
熱原事件に関与して検挙を免れた熱原新福地(しんふち)神社の神主と妻子とを南条家で庇護したが、幕府は内々探知し、事件後一年を経てもなお詮議が厳しいので、南条家の苦心は一通りではない。その間に処する注意と決意とを与えられたのが本書で、もし隠しおおせぬ時は、身延へ遣わされたらよい。
よもやここまでは探索されまいといわれる。
(三七)上野殿御返事(うえのどのごへんじ)(三七七)=真蹟なし。
日興写本、富士大石寺蔵。
「八月二十六日」の上に「弘安三年」と日興註記。
南条時光あて。
内容に因んで「子財御書」ともいう。
既に女子一人、男子一人の子財の上に、また男子誕生の子財を祝って「日若御前」の名を与えられた御書。
長男の名は左衛門太郎。二男とすれば左衛門次郎時忠か。
(三八)上野殿後家尼御前御書(うえのどのごけあまごぜんごしょ)(三七九)=真蹟三紙完、富士大石寺蔵(重要文化財)。
「九月六日」の上に「弘安三年到来」と日興註記。
時光の母尼あて。
内容によって「上野弔書」「弔書」ともいわれる。
時光の弟、七郎五郎の訃報に接して弔慰された御消息。
僅か一六歳で夭折した七郎五郎の生前を偲び、死を惜しみ、母の心中を察して種々に言葉を尽される真情、一字一涙の趣きがある。
追伸部分は真蹟になく、延山録外にある。
六月一五日時光登詣のときは(三七二番参照)一緒に元気で見えられたのに、今は父君と共に霊山浄土で手を取り合って悦んでおられることであろうと。
(三九)南条殿御返事(なんじょうどのごへんじ)(三八〇)=真蹟初一紙断、富士大石寺蔵。
弘安三年九月。
南条時光あて。
白米一袋・芋一駄の供養の返書で、南条七郎五郎の死去に対する弔意を述べる。
(四〇)上野殿母尼御前御返事(うえのどのははあまごぜんごへんじ)(三八八)=真蹟全二九紙中、第二六紙愛知県長存寺蔵、第二八紙富士久遠寺蔵、第二九紙重須本門寺蔵、他紙は欠。
弘安三年一〇月二四日、南条時光の母尼あて。
また「中陰書」「四十九日事」とも呼ばれる。
九月五日死去の南条七郎五郎の四十九日忌追善菩提のため送られた銭二貫文等種々のお供えに対する長文の礼状。
初めに、御菩提のため法華経一部・自我偈数度・題目百千返を唱え奉ったこと、次に法門談義に移り、経文を引き譬喩を挙げて法華最第一を説明、次に行者守護の経文と理由、輪陀王と白馬の故事を引いて法華経の利生を述べ、謗者多き日本国は蒙古に攻められて亡国せんとすと嘆き、最後に愛子を失った母尼を慰めて終る。
(四一)南条殿御返事(なんじようどのごへんじ)(三九一)=縮遺続一五三頁に做って、定遺は京都本満寺蔵の第一紙一〇行真蹟と同寺蔵の丁付不明の一紙一四行真蹟とを接続して、三九一番を構成するが、対照録はそれについて「此の両紙は全く別時の御筆蹟なれば之を別開するを可とす」(中巻二三三脚註)とて、丁付不明の一紙を別開し、代りに新発見の京都妙蓮寺蔵の第六紙後半九行の真蹟、京都妙伝寺蔵の第七紙一一行の真蹟(定遺四〇六番『上野殿御書』)を接続して一篇とす。
今、『真蹟集成』によって拝観するに、対照録の説が妥当と思える故、これによって解説す。
弘安三年一二月一三日、南条時光あて。
弟の七郎五郎百ヵ日の追善として白米二石・里芋一駄のお供えに対する礼状。
薬王品の十喩の中の第一喩「川流江河諸水之中海為第一、此法華経亦復如是」の経文を引き、以下、川流江河の水と大海の水との相違を懇切に述べ来り述べ去って第六紙、第七紙に来たり、故五郎殿の一六年の生涯の間の罪は江河の一渧、須臾の間の南無妙法蓮華経は大海の一渧なりと結び、次に話題を転じて、物には自然の順序があるとて、子に先立たれた母の悲しみを述べんとして、次下欠失。また別開された丁付不明の一紙は、方便品の小善成仏の「無一不成仏」の偈文を引き、唱題一反も成仏すと説く。
(四二)上野殿御返事(うえのどのごへんじ)(三九四)=真蹟なし。
日興写本、富士大石寺蔵。
日付の「十二月二十七日」の傍らに「弘安三年」と日興註記。
南条時光あて。
頭書に因んで「鵞目書」ともいう。
鵞目一貫文の布施に対する礼状。
やすやすと仏になる道を教え参らせんとて、金色王・須達長者の因縁を説き、これを時光に合せて、殿が熱原の者共を愛惜する故「わづかの小郷にをほくの公事せめにあてられ」、苦しい生活の中から、山中を思いやって一貫文の銭を布施されたその心根こそ、やすやすと仏になる道なりと示される。
(四三)上野尼御前御返事(うえのあまごぜんごへんじ)(四〇〇)=真蹟八紙完、富士大石寺蔵(重要文化財)。
弘安四年正月一三日、南条時光の母尼へ。
品々の御供養に対する礼状。
供養の志を謝し、重ねて七郎五郎の生前を偲んで死を悼み、法華経の信仰に励んで霊山浄土の再会を期せよと勧奨される。
(四四)上野殿御返事(うえのどのごへんじ)(四〇二)=真蹟。
日興写本、富士大石寺蔵。
日付の「三月十八日」の傍らに「弘安四年到来」と日興註記。
里芋一俵の供養に対する礼状。
熱原新福地神社の神主の許にある乳塩なる馬のこと、故五郎殿と見参に入った日の思出のこと、次に熱原事件がまだ尾を引いて「これよりのちも、いかなる事か候はんずらめども」心を強くして「身にて(法華経を)心みさせ給ぬらん」、貴し貴しと。
(四五)上野殿御書(うえのどのごしょ)(四〇六)→なんじょうししょ(南条賜書の(四一))
(四六)南条兵衛七郎殿御返事(なんじようひようえしちろうどのごへんじ)(四一一)=真蹟なし。
宛名は身延日朝写本・平賀本土寺録内写本ともに南条兵衛七郎殿とするが、時光の父兵衛七郎は既に文永二年の死去であるから、七郎次郎の誤写か。
抄首の文により「鶏冠(とっさか)書」ともいわれる。
「とっさか」とは昆布の一種。
法華経の行者は霊山に生るべしと述べ、この身延の山は霊山にも劣らない浄土であるから、折からの所労、早く治療して「急々に来臨を企つべし」、そして無始の罪障を消滅せよと勧める。
『昭和新修』遺文解題は、この書については疑点多し、更に深く考究すべしと注意を促す。
(四七)上野殿御返事(うえのどのごへんじ)(四一二)=真蹟なし。
本満寺録外写本、京都本満寺蔵。
弘安四年九月二〇日付、南条時光あて。
「一切の事は国により時による」とは仏法の道理なり。時に当ってこの山中に芋・牛蒡・大根の御供養は有難いと。
(四八)上野尼御前御返事(うえのあまごぜんごへんじ)(四一五)=真蹟末尾一紙、京都本禅寺蔵。
弘安四年一一月一五日付、南条時光の母尼へ。
対照録は弘安三年に系く。
母尼が亡父松野六郎左衛門の命日に白米一駄・洗芋一俵を捧げたに対する礼状。
『法華伝』の烏龍遺龍の古事を引いて、子の善根が親の追善となる故、父・夫・子共に成仏疑いなしと諭し、それを日興殿が母尼に読んであげてくれと。
(四九)上野殿母尼御前御返事(うえのどのははあまごぜんごへんじ)(四一八)=真蹟六紙完、富士大石寺蔵(重要文化財)。
弘安四年一二月八日、南条時光の母尼へ。
乃米(玄米)一駄・清酒一筒・かっこう一紙袋の御供養への礼状。
文永一一年(一二七四)六月一七日身延山入山定住以来今まで一歩も出山せず、その八ヵ年のやせやまい。今年は益々重くなり、この十余日は食も通らず、身は石の如く、胸は氷の如く冷ゆ。そこにこの酒。温たかにわかして、かっこう(藿香=胃腸の薬)を「はたとくい切て」一口のめば、心地よい汗に「此御志ざしはいかんがせん」とまで悦ぶところに「両眼よりひとつのなんだ(涙)をうかべて候」。涙に浮ぶ故五郎殿の在りし日の姿。日蓮もこの世に在るのは久しくあるまじ。五郎殿に往きあったら、母のなげき必ず申し伝えようと。
浅井要麟云く「御真蹟が富士大石寺に在りといはれてゐるが、親しく拝観したき念願の切なるものがある」と。浅井云くとは同氏編『遺文全集』別巻「解題」の文(三四六頁)。
(五〇)春初御消息(はるのはじめごしょうそく)(四二六)=真蹟なし。
本満寺録外写本、京都本満寺蔵。
弘安五年正月二〇日。
三宝寺録外・境妙庵目録・日諦目録には建治四年または弘安元年とあるが、文中「故五郎殿」とある故、弘安三年以後でなければならぬ。
南条時光あて。
米・塩・餅・芋の供養に対する礼状。
食絶えて読経の声もやみ、未来三五の塵点を経ることになるかと嘆いていた所に「此御とぶらひに命いきて又もや見参に入候はんずらんとうれしく候」と悦ばれる。
(五一)法華證明鈔(ほっけしょうみょうしょう)(四二九)=弘安五年二月二八日付、時光の重病平愈の祈りの御消息。
→にっこうししょ(日興賜書)の(五)
(五二)筵三枚御書(むしろさんまいごしょ)(四三〇)=真蹟初め四紙、富士大石寺蔵(重要文化財)。
弘安五年三月。
宛名等を欠失しているので、宛名は不明であるが、恐らく南条時光あてか。
文初に「三月一日より四日にいたるまでの御あそび」とあり、時光が聖人の許で遊楽したとすれば、前書より数日の後であり、前書にて重病が平愈したので、御礼に身延に詣でて、元気になった姿をお見せしたことになる。そのため自分の痩せ病もなおり、虎とるばかりに元気になったと、時光の快癒を自分のことのように悦ばれる。
(五三)上野殿御書(うえのどのごしょ)(四三一)=真蹟なし。
延山録外写本、身延山蔵。
弘安五年八月一八日、南条時光へ。
時光が屋形造りの棟札を請うたに対して、須達長者が祇園精舎を造ったときの火難除けの経文として、化城喩品の「聖主天中天 迦陵頻伽声」等の経文を書いて「火災をやめ候」とて日興を遣わして慶賀された。
(五四)彼岸鈔(ひがんしょう)(続四二)=弘安五年正月一六日付、上野五郎左衛門あて。
(五五)上野五郎左衛門尉殿御書(うえのごろうざえもんじょうどのごしょ)(続四五)=弘安五年八月一一日付、上野五郎左衛門尉あて。
両書とも同一人物宛であり、この人を南条時光とする説に『本化別頭仏祖統紀』がある。
その優婆塞列伝の中に「上野五郎左衛門時光は鎌倉副帥の家族にして、一時望み重し。上野十郎朝村・上野太郎景綱等の親戚甚広し」と。
これらの上野(こうずけ)氏は野総の大名にして富士上野(うえの)とは関係なし。勿論聖人の信徒ではない。
また前書では龍樹菩薩検帳・仏説彼岸功徳成就経を引くが、これらは諸経論目録になし。
後書では天親論を引くが、広く天親所造の論を検するに同文なし。いやしくも折伏をもって任ずる聖人にかかる偽書の引用があることは絶対ない。中古天台者に往々荒唐無稽の書を捏造する習癖あり。故に定遺は俗書と断じて続集に編入。
《『日蓮聖人遺文全集講義』、『日蓮聖人御遺文講義』、『録内御書註釈』、堀日亨『富士日興上人詳伝』、『日蓮聖人真蹟集成』、『録外考文』、『録外微考』、茂田井教亨『日蓮聖人の書簡』》
(浅井円道)
【補記】(一)南条兵衛七郎殿御書(三八)真蹟断片紙数は、『平成二十四年度京都本山妙覺寺歴代先師会の栞』によって改めた。
(三)薬王品得意抄(四一)内容は、法華経中の薬王品の位置を示し、法華の超勝が十喩で説かれるうちの四喩が示され、さらに「女人往生成仏段」と標挙して法華経の独勝たる女人成仏を強調している。後欠状であることが惜しまれる。
(四)上野殿母尼御前御書(七四)本書は、『定本遺文』がその底本『縮刷遺文』の処置を踏襲し、その『縮遺』は底本『高祖遺文録』の対処を継承したのであるが、『上野殿母尼御前御書』なる書名は誤認にもとづくもので沫消すべきものである。
そのことを告げて『日蓮聖人遺文辞典歴史篇』の本書項(執筆高木豊)は次のように述べる(八九頁)。
「真蹟二紙完および上書同幅、熊本市本妙寺蔵。二紙と上書の『上野殿母尼御前御返事』が同幅に表装されているため、『高祖遺文録』はこれを本紙の上書として、本紙と合わせ『上野殿母尼御前御返事』として収録した。『縮刷遺文』もこれを踏襲し、稲田海素は本妙寺蔵の真蹟を臨写したものにより判断したと注記されているし、さらに『定本遺文』もこれによったが、題号は『上野殿母尼御前御書』とした。(略)しかし、『対照録』はまず、本紙と上書の筆蹟の著しい違いを指摘、本紙の執筆年次を文永五年(一二六八)と推定、上書のそれを日蓮晩年の弘安四、五年(一二八一、二)とした。さらに、本紙瑞書に宛所―欠いている―の人物の母の尼御前の法華信仰の深きを悦ぶとの文言から、これを『日常目録』にみえる「母尼公信法華経之条悦思食由事一通」に比定して、富木常忍に宛てた書状であろうと推測、これに本書状冒頭の文言をとり『止観第五之事御消息』と命名した。支持すべき推測である(以下略)」。
『対照録』の見解がまさしく正解であるとして受容したものである。
よって浅井円道執筆になる『定本』にもとづく誤れる対告者・系年記述は全文撤回すべきである。
『定本』は『対照録』の指摘をうけて増刷にあたって脚注に補正記を付したが、なお不明瞭・不自然な記述を弄していて非学問的である。
そして今はなお誤認に気付かぬ反故記述が散見されることは遺憾である。
なお、『上野殿母尼御前御書』改め『止観第五之事御消息』の右様のことについては「富木賜書」項の補記においても言及した。
ところで浅井要麟は昭和九年発行『昭和新修日蓮聖人遺文全集』別巻における本書解題で、本書の袖書と宛名(上書)とはその記述が両立しないこと、文面が上野母尼宛消息としてふさわしくないことなどを指摘して成立を疑い、要考究と注意している。
適切な疑念提示で『対照録』に先立つもので貴重な注意と指摘であったことになる。
(五)上野殿御返事(一四七)駿河下向・亡父墓参に関する内容から、南条兵衛七郎の後家尼にあてたものであろう。
(一〇)単衣鈔(一九三)対告者については南条賜書とするには難点がある。
即ち書中に「夫妻二人ともに」云々とあり、「未だ見参にも入らぬ人」との記述もあって、これらは南条賜書を拒絶する。
追伸の名から藤四郎夫妻宛状とすることもできようが、しかしこれも追伸部分のない写本がありもするので難点となる。
いまはこれらを記し、本書対告に問題があるということを付加しておく。
(一八)上野殿御返事(二五二)本状には問題がある。
それは『対照録』による次の指摘による。
「本断片の本文と日附以下とは著しく聖筆の年代的特徴を異にし料紙の楮質も亦異なる。別個の御書を貼合せたるものの如し」(中巻二四五頁)。即ち、日付と署判の部分は他のものを貼合わせたものとの見方である。
要法寺蔵断片への指摘である。
これによれば次が言える。
「建治三年」の日興添書を存する「七月十六日」状が存し、一方、貼合わせ本文の執筆年次『対照録』説は「弘安二年五月頃」である。
要法寺蔵断片の真蹟写真(『集成』四巻)を見れば、「恐恐謹言」に至る本文末行部分は『定本』脚注は「磨滅」とするがそうではなく切断されていると判断される。
末紙後段切断によって消滅している「日付署判」等を別個の真蹟のその部分を貼り付けて形態を整えた。
それが要法寺蔵断片の現状なのであろう。
真蹟に充所は不存であるが、その個所も切断されたのであろう。
不存の充所であるが内容は明白に南条時光賜書と考えてよく、写本日朝本は未見で不承知だが本満寺本は「上野殿御返事」の充所がある。
とまれ右であって『対照録』の所見は重事といえよう。
反復記せば、「建治三年七月十六日」賜書本文は散逸して存せず、弘安二年五月某日状の本文は現存する、ということになる。
なお、『対照録』の見解には異論が提せられもしているが(『集成』解説、『興風』13号)いかがであろうか。
(二六)上野殿御返事(三一四)冒頭部分の真蹟断片「了十枚給了」五字一行が平成一三年金沢妙法寺より新出(『北国新聞』『日蓮宗妙法寺御宝物』)。
(二七)九郎太郎殿御返事(三一七)系年異説に『対照録』の文永一一年がある。
(二九)上野郷主等御返事(三二六)系年について寺尾英智氏「『上野郷主等御返事』形木について」(『日蓮聖人真蹟の形態と伝来』)は形木の署名花押の書風から弘安五年であるとした。至当である。
(三二)上野殿御返事(三五〇)本文全同で「治部殿御返事」の充所と署名・花押は日蓮聖人筆の『治部殿御返事』が京都本圀寺に現蔵される。
本文の筆者は日興。
つまり日興は弘安二年一一月六日のこの時、身延にあって日蓮聖人に近侍し、日蓮聖人が書き終えた『上野殿御返事』によって治部房賜書の本文部分を恐らく師命のもとに筆写したのである。
この事実は、かの熱原法難の終末にかかわって重大な実況を告げる。
即ち、法難対策のため鎌倉へ出向して国権との裁判闘争に従事していた日興が、駿河に帰国し、ついですぐさま身延に登山、鎌倉における事態の推移顚末、殊に事件の勝利などの委細(斬首された三人のこと、釈放された一七人のことなどの詳報で、釈放は裁判勝利にほかならない)を報告した、ということを証することとなるのである。
このことは、古来現在、不明もしくは曖昧でありつづけ、あるいは臆測の暴説がとられてきたと思える熱原法難全体像理解、ことには事件の終末解明に十全に寄与するのであった。
さらに付言するが、本圀寺蔵『治部殿御返事』の存在はつとに知られていたのであった。
すでに『日諦目録』『日明目録』に「与治部房書龍門書」として挙げられているし、のみならず管見だが、『高祖年譜』は「(弘安二年)十一月六日賜書治部房」と記し、同『攷異』は「治部房」下に異称「龍門書」の名を示し、『啓蒙』の意見に従うという。
『録内啓蒙』の関係記述とは「龍門書」は「日位」(治部房)授与書であるということで、異本の上野賜書説を退けているようである。『録内啓蒙』には「平賀日意ノ御書ノ書入ニハ治部殿御返事トモ云」と録されていて自説の支証としている。これによれば日意の録内御書写本集『平賀本』当時「龍門書」は『治部殿御返事』の異称を有していたのである。はるか後代、稲田海素は『縮遺』に「偖京都本圀寺ニモ治部殿宛ノ同文アレトモ且ク此ニ依ル」(一九一六頁)と付記している。かように本文代筆状『治部殿御返事』は真蹟本と同様の価値ある一等文献なのであるが、遺文集未載のため活用できなかったのである。以上、要書『上野殿御返事』理解への肝要事として追記文をほどこした。
(四八)上野尼御前御返事(四一五)『定本』系年弘安四年、『対照録』系年弘安三年の両説が述べられているが『対照録』三年説が不動の確定説である。
理由は真蹟署名「蓮」の字辶(しんにょう)の筆法による。即ち弘安四年一一月の時期ははっきりと跳ね上がるが本状は跳ねがない。つまり断然弘安四年ではあり得ないのである。この事例はほかにもあって系年推定の最有力視点の一つである。
(五二)筵三枚御書(四三〇)『莚三枚御書』系年は弘安五年ではなく弘安四年である。また、弘安五(一二八二)年三月上旬という指摘もある。
対告者は疑いもなく南条時光である。
三月一日から四日まで三泊四日の外泊外遊者は日蓮聖人である。
病身であった聖人の駿河上野郷南条家訪問は必死の敢行であり、それは心中に篤く深く思念する志の実践であった。
岡本錬城「日蓮聖人書簡『莚三枚御書』研究近業批判―系年と対告者、その真実の探究―」稿を紹介する(同氏著『日蓮聖人遺文研究』第三巻所収)。
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(岡元錬成)
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