南条兵衛七郎殿御書(三八)
南条兵衛七郎殿御書(三八)
なんじょうひょうえしちろうどのごしょ
日蓮聖人筆。
文永元年(一二六四)一二月一三日。
『昭和定本日蓮聖人遺文』所収。
真蹟断片一二紙、神奈川県本化妙宗連盟・東京都由井一乗氏・京都市本禅寺・広島県妙顕寺・京都市妙覚寺・神奈川県勧行寺・千葉県法蓮寺・福井県長源寺・滋賀県蓮華寺・京都市本満寺・京都市本隆寺の一一ヵ所に所蔵。
日興写本二本、重須本門寺・保田妙本寺蔵。
聖人四三歳の折、安房より駿河の南条兵衛七郎に宛てられた書簡。
弘長元年(一二六一)五月、伊豆に流罪の身となった聖人は、同三年二月、赦免されて鎌倉に帰られ、翌文永元年(一二六四)、房州小湊におもむかれた。
同年一一月一一日、東条松原大路にて地頭の東条景信等の襲撃を受けられた。
これより一カ月の後、南条兵衛七郎に対し、病気慰問と法華経信仰の勧誡のために本書を与えられたのである。
題名は後人の付したもので『南条御所労鈔』『慰労書』等の異称のほか、単に『南条鈔』と略称することもある。
本書の内容は、南条兵衛七郎の病に寄せて後世の安心を勧め、五義を論じて法華経最勝を明かし、兵衛七郎の法華経信仰の退転を誡め、松原における受難を叙述して、自らを「日本第一の法華経の行者」であるとされる。
五義は伊豆配流中に執筆された『教機時国鈔』『顕謗法鈔』に弘経の方軌としての叙述を見、本書においては法華経信仰の勧奨を具体的に説き示す手段としての意味をも含んで叙述されている。
小松原法難については「今年も十一月十一日、安房国東条松原と申す大路にして、申酉の時、数百人の念仏等にまちかけられ候て」と、当時の情況がリアルに描写されており、『聖人御難事』の「文永元年甲子十一月十一日、頭にきずをかほり、左の手を打ちをらる」という記述と共に小松原法難についての最も信頼のある詳細な叙述である。
また「日本第一の法華経の行者也」の表明は、本書以前の「法華経の持者」「法華経の行者」の呼称から、一層発展した聖人の内証をみるもので、聖人の師自覚の深化を示すものといえる。
伊豆流罪と東条景信の襲撃という一連の受難を経由して、これを法華経の色読、即ち法華経身証の宗教体験として認識し、この体験認識の中で自らに法華経弘通の仏使としての資格を信認されたのである。
なお、南条兵衛七郎は翌文永二年三月、法華経信仰のなかで、嫡子七郎次郎時光と懐妊中(七郎五郎)の妻を遺して病没した。
《『遺文辞典』歴史篇「南条兵衛七郎殿御書」の項》